斧節【onobusi】


 2001年12月25日「創価wiki」で開始、2006年926日に「はてな」へ引っ越し「創価王道」に。そんでもって2010年11月18日「斧節」に。はてなダイアリーの広告表示に伴い2012年8月18日で終了。


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転居のお知らせ


 ウッカリしていた。はてなダイアリーに広告が表示されるようになったためブログを引っ越すことにした。っていうか既に引っ越し済みだ(笑)。


 今後は今まで以上に客観的に創価学会を含む仏教や宗教について、一般的な視点で綴ってゆく予定である。ダラダラと10年以上にわたって駄文を認(したた)めてきたが、私の実感としては創価学会員に特定してメッセージを発信することに意味を見出せなくなった。


「私は学会員である」という自意識に束縛されているため、学会員は党派性でしか物事を判断できなくなっているように思う。それゆえ言論の内容を吟味せず、単純に「敵か味方か」で判断する手合いが多い。


 ネット上では大した活動もしていない有象無象が徘徊している。


 ま、今更ではあるが少しばかり自己紹介をしておこう(笑)。


 私は個人折伏を10世帯やっている(全国制覇は4回)。完全に冬眠状態の会員を200人以上起こしてきた。メールのやり取りだけで本尊流布を行ったこともあるし、未活動のメンバーを活動家にしたこともある。言論部が立ち上げられた時、東京で一番最初に一般紙への投書が掲載されたのも私である。法華講との攻防についても詳細は書けないのだが、金星に等しい功績を二つ上げている。


 こんなものは自慢でも何でもない。結果を出すのは当たり前であるからだ。


 ネット学会員はネトウヨならぬネトガクに堕した感がある。不勉強を恥じることなく、堂々と「自分たちの正義」を語る臆面のなさ。彼らは他宗を罵り、他党を罵り、他の学会員を罵ることでしか自我を保つことができない。


 そんなわけで今後は宗教全般を通して世間一般に向けてメッセージを放つことにした。


 以上をもって、はてなは終了。

気をつけること


周恩来とコスイギン


何かを信じるということは、その何かについて判断を放棄すること

 教えてあげよう。人であれ、神であれ、何かの信条であれ、無条件に信じるのは、そりゃ精神の頽廃だぞ。だって、何かを信じるということは、その何かについて判断を放棄することだろうが。
「その通りだ、わが子よ。信仰は怠惰だ」
 では、主よ、なぜあなたは人々に信仰を求めるのですか?
「ちっぽけな鰯頭でモノを考えるよりは、信心した方がマシだってことだよ」
 思考停止がですか?
「その通り。どうせロクなこと考えやしないんだからな」
 ……しかし。
「お前自信、マニュアルを読まなかったせいで、ずいぶんトラブルにあってきたじゃないか」
 ……主よ、しかし、パソコンと人生は違うのではないかと……
「同じだよ。マニュアルをきちんと読んで、指示通りに扱えば何も問題は起こらない。それを、お前みたいな思いあがった半可オタクは、自分勝手な判断でコトを勧めて、結局墓穴を掘るわけだ」
 素人がレジストリをいじったりするなと?
「アプリケーションを利用してれば十分だろ? 何が不満なんだ?」


【『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆朝日新聞社、2005年)】

イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド

権威に関する四つの理論

 権威の理論は稀であるとはいえ、まったくないわけではない。いくつかのヴァリアントを除いてしまえば、互いに異なる(本質的な違いがあり、互いに還元できない)【四つの理論】がこれまでの歴史のなかで提起されたと言えよう。
(1)神学的または神聖政治的な理論
 第一次的で絶対的な権威は神に属する。他のすべての権威(相対的な権威)はそこから派生する。(この理論ではとりわけスコラ学派によって作り上げられたが、「正統」君主政論者、さらには世襲君主政論者も同じようにこの理論に依拠している。)
(2)プラトンの理論
 権威(「正当な」または「正統な」)は「正義」または「公平」に基づき、またそこから流れ出てくる。これとは別の性格をもつ「権威」はすべて偽−権威でしかなく、実際には「物理的強制力」(多少とも「粗野な」)以外の何ものでもない。
(3)アリストテレスの理論
 この理論は権威を知恵、知一般によって、すなわち【予見する】能力や直接的現在を超越する可能性によって正統かする。
(4)ヘーゲルの理論
 この理論は権威の関係を、主人と奴隷(勝者と敗者)の関係に還元する。主人は自己を他者に「承認」させるために自分の生命を危険にさらす覚悟をもっているが、奴隷は死よりも屈従を選ぶ。
 不幸にも、現象学的記述の面でも形而上学的分析と存在論的分析の面でも哲学的に完全に仕上げられた理論は最後の理論(ヘーゲルの理論)だけであった。他の諸理論は現象学の域を越え出ることはなかった(しかもそれらは、この現象学の領域においてすらけっして完全ではなかった)。
(ただし次のことは言っておかなくてはならない。ヘーゲルの理論はけっして本当には理解されず、じつにすばやく忘れ去られてしまった。だからヘーゲルの最も重要な継承者――マルクス――でさえ、権威の問題をまったく無視してしまったのである。)


【『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ:今村真介訳(法政大学出版局、2010年)】


権威の概念 (叢書・ウニベルシタス)

入信の社会学

 これに対して1960年代以降急激に発展した「入信の社会学(原文略)」では、「人はどのような状況下で宗教教団に加入するのか、それは本人や周囲にどのような影響を及ぼすのか」に注目し、「回心はアル集団への帰属過程として捉え直されて」いった。または、社会学の入信研究では、信者が加入する新たな宗教組織をかならず前提とし、それが新宗教である場合がほとんどであったと言えるだろう。
 このように、社会学における入信研究は、1)神秘体験ではなく、アル宗教集団への帰属家庭を扱い、2)その対象を宗教的達人でなく一般信者におき、さらに、3)伝統宗教の枠内でなく、新宗教への入信過程を究明しようとする点で、心理学の回心研究とは異なる。


【『現代社会とスピリチュアリティ 現代人の宗教意識の社会学的探究』伊藤雅之(渓水社、2003年)】


現代社会とスピリチュアリティ―現代人の宗教意識の社会学的探究