会長勇退

1979年(昭和54年)のヒット曲

冒頭のカーペンターズの曲は別。私が中学3年から高校1年になった年で、いずれの曲も鮮やかに覚えている。 昭和54年/1979年

こりゃあ「人間革命の歌」だな

会長勇退の年(1979年)のヒット曲――

怪文書「1995年9月24日、東京牧口記念会館で開催された牙城会全国大会での長谷川副会長の指導」について

問題とされているのは、「1995年9月24日、東京牧口記念会館で開催された牙城会全国大会での長谷川副会長(当時)の指導」と言われるもので、別名を「15年後の青年部へ」とされるものである。 長谷川副会長(当時)が、当該会合に出席されたのは事実だが、「…

「正義」の揮毫:昭和54年5月5日

薬王さんの画像にリンクさせてもらった。脇書きには「昭和五十四年五月五日 神奈川文化にて われ一人正義の 旗持つ也」と。 聞き書き4.24

第三代会長の辞任を告げる新聞

三十余年間、聖教新聞の配達を続けてくださった関西の母が語られていた。この間、最もつらかったことは何か。それは、第三代会長の辞任を告げる新聞を配ったことである。そして、その朝、涙ながらに誓った。わが地域には三代の師に直結する正義の連帯を大発…

巡り来る4月24日

今年もまた4月24日が巡ってきた。29年前の歴史を知る弟子が少なくなりつつある。上京してからというもの、数多くの先輩に尋ねてきたが、全体像をつかんでいる人は皆無だった。日達上人に直接、インタビューをした経済ジャーナリストから話を聞く機会もあった…

会長勇退の歴史を風化させるな

青年部諸君は、以下のページにあるリンクの全てに目を通しておくこと。 会長勇退 更に、時系列を辿って再読しておくこと。 1976年 1977年 1978年 1979年 1980年

月刊ペン事件〜会長勇退

猪野健治の分析によれば――、〔創共協定つぶしの経過を整理して言うなら、第一段階では公明党及び学会内保守派を共産党と対決させて、協定を有名無実化する。第二段階では学会と宗門の関係を悪化させ、池田を浮き上がらせる。第三段階では学会内反主流派をあ…

誰が歴史を編むのか?

昨年から、『花形記者は転んだ ジャーナリスト内藤国夫の素顔』(丸山実、坂口義弘)、『破滅 島原高はなぜ一千万信徒を裏切ったのか』(大友俊太郎)、『仮面を剥ぐ 文闘への招待』(竹中労)などを読んできて、思うこと多し。 言論問題〜第一次宗門問題と…

昭和54年問題

今日付の聖教新聞に掲載された正木理事長の寄稿は、極めて重要である。研修会での指導が、今まで以上に具体的な内容となっていることを併せると、何らかの覚悟が感じられる。 個人的には、「第一次宗門問題」という見方から、「昭和54年問題」として総括され…

「死身弘法・不惜身命  此の心は 学会精神のみにある」

大難の嵐の中の昭和54年4月2日──恩師の命日に私は書き留めた。 「死身弘法・不惜身命 此の心は 学会精神のみにある」 限りある人生。どうせ生きるならば、「あの人の生きたように!」と後世の人に希望と勇気を送る人生でありたい。 かの熱原の三烈士のごとく…

会長勇退から28星霜――

今日は会長勇退の日――。私は投票日直前になって初めて気づいた。1979年(昭和54年)と今年が同じ曜日であることを。 当時も、4月22日の統一地方選を大勝利して迎えた4月24日だったのだ。 日曜日に投票をし、翌日に大勝利が報じられ、そして全国から代表幹部…

カレーの市民

次に、これも「捕われの身」に関連するが、真実の勇者、真の戦士とは誰か、いかなる人物かということに触れておきたい。 ――大海の深き淵は見えない。青空の遠き奥も見えない。 大いなる勇気も、浅き世間の目には見えない。それどころか、しばしば臆病にさえ…

創立55周年

創立50周年の時は、策謀と逆風の荒れ狂うさなか私も勇退し、当時の北条前会長は苦しんでいた。私は北条会長に「難というものは、1000年も2000年も続くものではない。創立55周年は、見事なる祝賀の上げ潮をつくるから安心してほしい」と励ましたことを覚えて…

若草山の山焼き

万葉の香りも高き白鳳山明日香文化会館で、久方ぶりに奈良の同志の皆さまと、勤行・唱題し、ともどもに広宣流布を祈念し、自身の一生成仏を願い、また、先祖代々の追善法要ができたことを、最大の幸福としみじみ感ずるものである。 奈良へ来て思うことは、若…

第二章の学会のすべてを諸君に託す

最後に、今日の恩師の誕生日の佳(よ)き日に、戸田先生の歌を二首紹介し、諸君の1990年への凛々しい旅立ちを祝福いたします。 三類の 強敵あれど 師子の子は 広布の旅に 雄々しくぞ起て 師子王の 雄叫び聞いて 奮い立つ 広布の旅の 子等ぞ勇まし 第二章の学…

昭和54年/1979年

ニュース 1979-01-01 米中の国交が成立。 1979-01-26 三菱銀行猟銃人質事件。 1979-01-31 江川卓、阪神と入団契約後、即日、巨人の小林繁とのトレード成立。 1979-03-17 渡部絵美、ウィーンの世界フィギュアスケート選手権大会で日本女子が初の銅メダル獲得…

第2総東京代表協議会

1979年(昭和54年)の4月24日。私は会長を辞任した。 当時は、狂ったように障魔が吹き荒れた。 それは、私を陥れようと、邪宗門と結託した退転者、反逆者たちの陰謀であった。私一人を追い落とせば、学会を牛耳ることができるとの、卑劣な謀略であった。 名…

師は嵐の中で座談会を駆け巡った

それは、昭和54年の3月15日の夜のことである。第一次宗門事件の嵐の渦中、私が第三代会長を辞任する1ヶ月ほど前であった。 私は、東京の府中の大ブロック(大B)座談会に駆けつけた。現在の地区座談会だ。 この3日前、中野区で大B協議会に出席した私は、「今…

忘れまじ4.24

1994年と記憶する。長谷川副会長と秋山総合婦人部長が、会長勇退の歴史を幾度となく語った。私は、自分が聞いたものだけで満足できず、男子部の先輩をはじめ、親しくしていた婦人部や女子部の幹部にも聞きまくった。それをまとめたものが、「聞き書き4.24」…

4.24の歴史

ある方から、4.24についてやり取りをしている掲示板があることを教えてもらった。 その気持ちはわからないでもない。いまだに明らかにされてないことが多いのも事実だ。しかし、「会長勇退」は語り継ぐべき歴史であって、“語り合う”事柄ではない。皆で考えた…

会長勇退の年齢

会長勇退の時、先生は51歳だった。戸田先生が第二代会長に就任されたのも51歳だった。また、7月3日に戸田先生は出獄され、同じ日に池田先生は入獄された。この事実を知った時、「若退若出(にゃくたいにゃくしゅつ)」という寿量品の言葉を私は思った。不二…

「誓」

昭和54年(1979年)の5月3日、私は、ただ一文字、「誓」としたためた。それは、私が第三代会長を辞任した直後の本部総会の日であった。 師弟の「誓」に生き抜く限り、恐れるものなど何もない。 【5.3記念代表者会議 2006-04-25 創価文化会館】

吉田松陰と門下 その一念の相違

さて本日は、青年部の参加者も多い。そこで、吉田松陰とその門下について少々触れておきたい。 ご承知のように吉田松陰は、満29歳で死刑に散った。まことに若い。青年である。この一人の青年が近代日本の幕を大きく開けた。古き時代は倒れた。驚くべき歴史で…

青年よ、君は恥ずかしくないのか

広宣流布に生き抜いた人の「生死」は、無上道の「生死」である。 私は40年以上、世界中、数限りない人々の「死」の実相を見てきた。また、詳しく報告も受けてきた。 その結論として、見事なる「生」は、見事なる「死」をもたらしているといえる。「死」に臨…

勝たねば悲惨

変転する慢の心は醜い。それに対し、心定まれる人の生死(しょうじ)は美しい。 ある人が、ギリシャ映画の忘れ難い一シーンを語ってくれた。題名は『旅芸人の記録』。ギリシャ現代史を象徴的に描いた作品である。 灰色の雲の下、乾いた土を掘って、一人の青…

歴史の空白

創価学会の歴史に実は空白期間がある。それは、昭和54年(1979年)1月〜55年(1980年)3月までの期間だ。この間の池田先生の指導は存在しない。「三代会長を永遠の指導者」と位置づけておきながら、こうしたことが不問に付されているのは、断じておかしい。…

5.3記念最高協議会

いざという時に、その人の真価がわかる。 昭和54年4月24日。私が会長を辞任した時、驚きと怒りに燃えて、駆けつけた同志がいた。 「先生、会長を辞めないでください!」「どうして辞められるのですか!」「だれが辞めさせたのですか!」──その真剣な紅涙した…

5.3記念協議会

私が第三代会長を辞任したのは、昭和54年(1979年)4月24日であった。 その直後の5月3日、創価大学の体育館で行われた本部総会が、私の実質的な“会長辞任の総会”となった。 私は総会を終えると、東京の本部には帰らず、その足で神奈川へ向かった。 神奈川文…

模刻本尊

第一次宗門問題の際、正信会が騒ぎ立てた「御本尊模刻」に関する覚え書き。 まず、退転者の殆どが「模刻=模造」と勘違いしている。この我見ゆえに退転したともいえよう。以前、大客殿に御安置されていた日興上人の「御座替(おざがわり)御本尊」は模刻した…