“死”は虚飾をはぎ取った「生命それ自体」の戦い

 いわゆる世間的に「偉くなりたい」と願う人は多い。しかし、人間として「偉大になろう」とを定める人は少ない。
 人の称賛と注目を浴びたいと願う人は多い。
 しかし、「死」の瞬間にも色褪せぬ「三世の幸(さち)」を、自分自身の生命に築こうとする人は少ない。
「死」――それは人生の総決算の時である。も富も地位も学識も、それのみでは何の役にも立たない。虚飾をはぎ取って裸になった「生命それ自体」の戦いである。厳粛にして、公正な勝負の時である。
 この戦いの勝者こそ、真の勝者なのである。


【11.18記合同幹部会 1989-11-12 創価文化会館


タタール人の砂漠』(ディーノ・ブッツァーティ著)を引用しての指導。私は未読。


 欲望には際限がなく、決して満たされることはない。幸福の鍵は「少欲知足」にある。また、理と野望は異なる。タッチの差だ。理とは自分の信に恥じない生きざまであり、野望は自分以外のすべてを手段にする狡猾(こうかつ)な生き方である。


 どんなに財産があったとしても、病はどうすることもできない。いくら有であっても、人間関係で悩む人は多いものだ。


 先日、NHKの「おはよう日本」から取材を受けた。私は界の裏事情を説明した。すると再び連絡があり、「上司と相談したところ、小野さんの話の方が面白そうだってことになったんですよ。お忙しいとはいますが、番組に出てもらえませんか?」と言われた。私は直ぐに断った。幹部をいじめ過ぎて、最近人相がよくないのだ(笑)。「実は、指手配犯なんだ」と煙(けむ)に巻いておいた(笑)。


 個人的に、賞状やメダルの類いを部屋に飾るのも好きじゃない。間に掲げてあるのは、先生の写真と「創価班」の揮毫、それから結婚式で頂戴した短冊だけである。


 私は、「無冠こそ青年の魂」という箴言(しんげん)をこよなく大切にしているのだ。人生最大の贅沢(ぜいたく)は、書物を堪能し、音楽に躍らせ、時々絵を見にゆくことである。これに過ぎるものはない。

“浅はかな有名人”になるな

 現在、このように広布の道が大きく開けてきた。その陰には、決して華やかな表舞台に出ることなく、黙々と活躍してきた無数の信の勇者がおられる。その反面、利にとらわれて、広布の第一線での労を避け、汗水を流すこともなく要領よく活動し、何かにつけて表に立っては自己を偉く見せようとする人もいる。
 そうした人々は、有になったり、何かの立場を得たりすることを功徳のように考え、組織において日夜、労を重ね、愚直なまでに地道に活躍をしている方々を睥睨(へいげい)し、見下していくものだ。そのような浅はかな“有人”が今までにもいたことはご存じの通りである。また、これからもあるかもしれない。
 しかし彼らは、いわゆる世渡りがうまいというべきであって、深き信と人生の完結への正しき軌道、行路に則(のっと)ってはいない。ある者は利の卑しき根であり、何よりも我慢偏執のである。
「我慢」とは、我尊しとおごる“慢”であり、「偏執」とは偏った考えに執着していくである。御書の仰せに従わず、広宣流布の正しき軌道から外れた我慢偏執のこそ、信の最大の敵である。
 表面のみ信ありげな姿の中途半端な生き方では、一時はよいように見えても、最後は成という生命の完結を得ることなく、しみの境涯になってゆくことを知っていただきたい。


【金会全国代表者会議 1986-02-22 創価学会本部】


 陰で戦う金会に対し、「我が使命に生きよ!」と指導されている。金会は、創価班や牙会よりも最高幹部と接する機会が多い。時には堕落した幹部の振る舞いを目の当たりにすることもあるだろう。信とは相容れない矛盾にしむこともあるだろう。しかし、任務上のことは組織で相談することもかなわない。その上、彼等は会員の目に留まることもない。


「その中で戦え!」と先生は言われているのだとう。「それが、私の歩んできた道でもある」と。


 信強盛とは、陰で闘争し抜く人の異である。されば、いかなる立場になろうとも“陰徳の人”でありたい。そしてまた、“陰徳の人”を讃えるリーダーでありたい。


 近頃じゃ、会館でしか活動してないクソ幹部がいるよ(笑)。

権威主義は必ず行き詰まる

 学会は権威主義、ならびに利であっては絶対にならない。それでは必ず行き詰まってしまいます。自分の単なる情で、下からの見を抑制しては絶対にならない。伸び伸びと皆が見を述べられるようにしてあげ、それで、よい見は取り上げて、実行に移す。よい見をいった人は褒めなくてはいけない。尚、支部員や地区員を自分の部下のようにって、命令で動かそうとってはならない。それでは権威主義であり、信ではない。学会の根本的な行き方でもありません。所詮、絶対に威張らぬことです。そして、特に陰で労している人に温かいいやりをもっていただきたい。


【夏期講習会/壮年部大幹部会 1966-08-03 総本山大石寺・大客殿】


 先生、38歳の時の指導。今、「下から上を動かせ」シリーズをお送りしているが、先生の指導は昔から一貫して変わらない。「古い指導は、時代が異なる」という見もあろうが、私はそうはわない。法という、宇宙と生命の法則を根本にしていればこそ、その普遍は今尚、無限の輝きを放っている。


 権威主義利はセットになっている。権威主義の幹部が頑張るのは、自分の点数を稼ぐ時だけだ。役職を笠に来て威張る愚か者は、虎の威を借るといってよい。


 最近になってわかるようになったのだが、動いてない幹部ほど、言葉を巧みに飾る傾向が強い。大したことでもないのに、「創価家族の」とか、「凄い戦い」とか平然と言ってのける。要は、自分が全く関わってないことを隠蔽(いんぺい)し、愛を振りまいているだけの内容になっているのだ。結局のところ、学会の役職にぶら下がっているだけだ。


 一方的に話す人、偉そうに話す人、志の疎通ができない人――これらは全部、権威主義の人である。権威主義は押し付けとなって、皆をしませる。権威主義は、上の幹部には弱く、下の人々に対しては威張り散らす。つまり、畜生界だ。これが官僚の正体だ。


 女子部を育てることが学会全体の呼吸となっている。それは皆が知っていることだ。だが、婦人部の打ち出しをみると、「若い女以外は折伏してはいけない」といった雰囲気が出てきている。闘争の舞台を狭(せば)めるような方針は、単なる点数稼ぎに過ぎず、悪しき成果主義の見本といってよい。


 個人としてみれば、さほど悪い人物はいないだろう。ところが、幹部として指揮を執ると、無能になる人物が多い。これは、個人の力量と役職が一致してないためだ。愚将の下(もと)では、どんなに頑張ったところで、皆の力は発揮できない。


 最前線で戦う方々が少しでもやりにくかったとすれば、それは、本部長以上の正役職が無能な証拠である。幹部が現場に入ってない。そして、人事を誤る。こうした結果が、現場に色濃く影響しているからだ。


 組織にリコール制を導入して欲しいもんだね(笑)。いずれにせよ、組織内の謗法払いが必要だ。

名聞名利の人が仏法を破壊

 世間的に偉くなった人が、法・信を壊してゆく恐れがあることを注しなければならない。議員とか、社会的な地位を得た人が利に流されて、この美しい和合僧団を、令法久住の清らかな哲学を破壊してゆくのです。五老僧法を破壊した事実を、決して過去のこととして見過ごしてはならないといます。


【「創価学会座談会」/1968-01〜1969-04までの本部幹部会の指導を中に、まとめたもの】


 我慢とは元々法用語で「我、慢ずる」と読む。我(が)を誇って、他を軽んじる。これが、どうして辛抱の味で使われるようになったのかね?


 法は勝負、国法は賞、世法は評判である。世間で評価されると、自分が大きくなったような錯覚を覚える。周りの人も自分の言いなりになる。自分が他人をコントロールするのは快だ。そこでは、自分の人間は不問に付され、力の拡大が目的と化す。ここに権力の落とし穴があるのだ。


 一度でも権力の蜜を味わうと、真面目にコツコツやることが馬鹿らしくなる。だから、馬鹿らしいことを真面目に行う庶民を見下すようになる。


 成功した時、結果が出た時、功徳を得た時が一番危ない。は天界に住むのだ。世間でも“好事多し”というが如し。成功に酔った瞬間から堕落が始まっていることを知るべきだ。


 組織の中でも世法がまかり通っている現実がある。まだまだ、“幹部は偉い”というい込みがある。例えば、「座談会に入ってもらえますか?」と地区幹部・ブロック幹部からお願いすることはあっても、幹部の側から「入れてもらえますか?」と頼むケースは全くない。幹部が踏ん反り返っている証拠といえよう。


 最前線がまともなのは、地区幹部・ブロック幹部が動いているからだ。連絡・連れ出しなどの日常的な営みが、広宣流布覚を正常なものにしている。支部幹部以上でおかしいのが多いのは、動いてないからだ。広布のために、誰よりも早く目覚め、日々怠ることなく動いているのは配達員さんだ。自分の都合で適当な活動しかしてない副会長よりも、無の配達員さんの方が、信の位は上だ。

傲り高ぶった人間は最低の人間

 人間の“傲り”ほど醜い情はない。師の戸田先生もこの一点には常に峻厳であり、よく「傲り高ぶった人間は、最低の人間である」と語気を強めておられた。
 社会にあっても、また、広布の組織にあっても、決して“傲り”の人であってはならない。“傲り”の人からは、おのずと人が離れ、友人や後輩も次々とその人の元を去ってゆくものだ。これほど寂しいことはないし、悲しいこともない。
 政財界や学園の世界を始め、いかなる分野にも傲り高ぶった「権威」と「利」の人がいるものだ。しかし、そうした人々の“傲り”のを豊潤な人間へと変えゆく労作こそ、他ならぬ私どもの信であると自覚したい。真実の人間生命の変革は、「妙法」による以外にないからである。まさに、正しき信仰とは、人間の精髄を発揮させゆく王道である。
 ゆえに、私どもの折伏弘教は、地球上のあらゆる“傲り”の存在と戦いゆく民衆の一大運動となっているといえよう。
 ともあれ、我らは決して傲慢ではなく、信の信で全てに勝った。その信に多くの人々が和合していったのである。


【東京各区合同記幹部会 1987-12-19 江東文化会館


「『傲慢』というの教科書があれば、あの野郎は、巻頭にカラーで登場するだろうな」と私は笑い飛ばす。


 威張り腐った幹部はたしなめろ。それができなければ、皆がしむのを黙って横目で見つめるしかない。


 最近増えているのは、一見、腰が低いように見えながら、その実、傲慢な幹部である。


 勤行唱題をしない幹部、家庭指導をしない幹部、聖教新聞を読まない幹部は、皆、傲慢の人である。問題を知りながら、手をこまねいて何もしないのも傲慢な幹部の典型。御書を拝読しないのも、役職にぶら下がってるだけで責任を果たさないのも同様。こうして見ると、山ほどいますな(ニヤリ)。


 もっと手っ取り早く判断する方法を教えて進ぜよう。最前線に入ってない幹部、指導を受けてない幹部が、傲慢な人物なのだ。上辺だけの人柄なんぞに騙(だま)されちゃいけませんぜ(笑)。


 皆のしみを知って、一人立ち上がるリーダーがいれば組織は守られる。「まあ、まあ」なんぞとお茶を濁すような幹部は、広宣流布の邪だ。


 学会で通用するのは、“信”の権威だけだ。

食法餓鬼

 さて、ここで「食法餓鬼(じきほうがき)」について、少々論じておきたい。これは、小乗教の阿含部にあたる「正法処経(しょうぼうねんじょきょう)」に説かれた36種の餓鬼の一つで、「法を食する餓鬼」のである。同経には「不浄の法を以て人の為に宣説(せんぜつ)し、財を得て自供(じぐ)せるも布施を行わず、蔵を挙げて積聚(つ)み、是の人、此の嫉妬覆うを以て、命終りて悪道の中に生まれ、食法餓鬼の身を受けたるなり」とある。
 つまり、衆生に不浄の法を説き、財を得ても人には施さない。富を積んで、嫉妬のに覆(おお)われているゆえに悪道に堕した生命といってよい。


 日蓮大聖人は「四条金吾殿御返事」で次のように仰せである。
「食法がきと申すは出家となりて法を弘むる人・我は法を説けば人尊敬(そんぎょう)するなんどひて利のを以て人にすぐれんとうて今生をわたり衆生をたすけず父母をすくふべきもなき人を食法がきとて法をくらふがきと申すなり」(1111頁)
 ――食法餓鬼という餓鬼は、出家となって法を弘める人の内、自分が法を説けば、人は尊敬するなどとい、利のをもって人よりもすぐれようとって今生をわたり、衆生を助けず、父母を救おうというもない人を食法餓鬼、つまり、法を食らう餓鬼というのである――と。
 更に、「当世の僧を見るに人に・かくして我一人ばかり供養をうくる人もあり是は狗犬の僧と涅槃経に見えたり、是は未来には牛頭(ごず)と云う鬼となるべし」(1111頁)
 ――当世の僧侶を見ると、人には隠して、自分一人ばかり供養を受ける人もある。この人は、狗犬の僧と涅槃経に説かれている。この者は未来世には牛頭(頭が牛で、身体が人間)という鬼となる――。
「又人に知らせて供養をうくるとも欲に住して人に施す事なき人もあり・是は未来には馬頭(めず)と云う鬼となり候」(1112頁)
 ――また人に(法を)知らせて供養を受けたとしても、欲に住して人に施すことのない人もある。この者は未来世に馬頭(頭が馬で、身体が人間)という鬼となる――。


 ここまでは出家の僧侶についての御文と拝される。
 大聖人は続いて、在家の門下に対しても、こう御指南されている。
「又在家の人人も我が父母・地獄・餓鬼・畜生におちて患(くげん)をうくるをば・とぶらはずして我は衣服(えぶく)飲食(おんじき)にあきみち牛馬眷属・充満して我がに任せて・たのしむ人をば・いかに父母のうらやましく恨み給うらん」(1112頁)
 ――また、在家の人々でも、父母が地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちてしみを受けているのを弔(とむら)わないで、自身は衣服、飲食に飽き満ち、牛馬、眷属は充満して、自分のに任せて楽しむ人を、どれほど父母に羨み恨まれるであろうか――と。
 そして大聖人は、こうした餓鬼の本質を鋭く喝破され、「形は人にして畜生のごとし人頭鹿(にんずろく)とも申すべきなり」(1112頁)――形は人間であっても畜生のようなものである。人頭鹿(表面は人間のようだが、は醜い獣のようなもの)ともいうべきである――と仰せになっている。


 正法を説き、大義のために奔走していたように見えても、利で退転し、「民衆のため」「社会のため」という尊い精神を失っていった者がいた。
 また、正義を演じつつも、実はと富を貪らんがためにのみ行動する者もいた。それは、まさに「形は人でも、本質は畜生」という醜悪な「餓鬼」の姿に他ならない。出家であれ、在家であれ、言説巧みに「法」を利用し、「法のため」を装って自身のみの繁栄を図っていく者は、要するに「法」を食いものにする邪の徒であり、「食法餓鬼」といわざるをえない。
 法は峻厳である。地位や誉のために「法」を勝手に悪用した者が、厳を受け、やがて悪道の海に沈むことは必然であり、これほど恐ろしいことはない。
 また、敷衍(ふえん)していえば、社会にあって政治や社会事、学問や芸術、医学等に携わり、本来、社会の進歩や民衆の幸福に貢献すべき立場にありながら、善の庶民を食いものとし、自己の営利栄達のみに腐するのも、広義の味で「食法餓鬼」といえるかもしれない。


【第9回全国青年部幹部会 1988-10-29 創価文化会館


 組織や社会で活躍しているように見えても、奥底(おうてい)の一が狂っていれば、信利用になるとの戒め。食法餓鬼は法利用。


 破壊僧・日顕の本が暴露されるのは、この指導から2年後のこと。「開目抄」の御文を拝すと更に理解が進む。

或は阿練若(あれんにゃ)に納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在つて自ら真の道を行ずと謂つて人間を軽賎する者有らん利養に貪著(とんぢゃく)するが故に白衣(びゃくえ)の与に法を説いて世に恭敬せらるることを為(う)ること六通の羅漢の如くならん、是の人悪を懐(いだ)き常に世俗の事を(おも)い阿練若に仮て好んで我等が過を出さん、常に大衆の中に在つて我等を毀(そし)らんと欲するが故に国王大臣婆羅門居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人外道の論議を説くと謂わん(224頁)


【通解】あるいは人里離れた閑静な場所に衣をまとい、静かな所で真の道をしているとい、世事にあくせくする人間を軽賤する者があるであろう。私利私欲を得る目的で在家のために法を説いて、その結果、形の上では六通の羅漢のように尊敬されるであろう。この人は悪を抱き、常に世俗の事をい、閑静な場所にいるという理由だけで、自己保身のため正法の者の悪口を並べ立てるであろう。常に大衆の中にあって正法の行者を毀るため、国王や大臣や波羅門居士およびその他の比丘衆にむかって誹謗して、我等の悪を説いて「これは邪見の人であり、外道の論議を説いている」というのであろう。


日顕の登場によって、初めての底から実できる御書となった」と辻副会長が語った一文。その特徴を挙げてみよう。

  • 自ら真の道を行ずと謂つて→「私は正しい」というい上がり。
  • 人間を軽賎する→民衆を小馬鹿にする。
  • 利養に貪著する→損得勘定で動く。
  • 世に恭敬せらるること→特別な存在として尊敬されている。
  • を懐き→狡賢(ずるがしこ)く計算高い
  • 常に世俗の事をい→世俗的な利や損得を常に考えている。
  • 阿練若に仮て好んで我等が過を出さん→「あの人は間違っている」と批判する。

阿練若【あれんにゃ】
 山林、原野等を味し、人里から近からず遠からず離れた、比丘が修行するのに閑静で好適な場所をいう。一般には、人里離れた山寺や寺院等のこと、またそのような所で法を説く比丘という味にも使われる。
【『教哲学大辞典』】


「ビンゴ!」としか言いようがない(笑)。

 大事には小瑞なし、大悪を(起)これば大善きたる、すでに大謗法国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげ(歎)かせ給うべき、迦葉尊者にあらずともまい(舞)をもまいぬべし、舎利弗にあらねども立つてをど(踊)りぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしにはをどりてこそいで給いしか、普賢菩薩の来るには大地を六種にうごかせり、事多しといへどもしげきゆへにとどむ、又又申すべし(1300頁)


 大悪と戦う中にのみ、大善の証明がある。大悪を打ち破ってこそ、大正法が広まる。


 そして、大事なことは、和合僧の中で大悪について語り合い、確認し、糾弾することによって、組織悪をも打開してゆけることだ。


 学会に利の幹部は要らない。家庭指導をしない幹部、トラブルを避ける幹部、ブロックに顔を出さない幹部は、いずれも利の幹部だ。現場に入ることもなく、偉そうな口をきく幹部を一掃しよう。

親しみより破るべし

【問】佐渡御書の中に「大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし(957頁)」とありますけれども、「親しみより破るべし」ということを具体的に教えてください。


【答】大御本尊を持(たも)っている人は大果報の人です。これ以上の大果報はありません。創価学会は大果報の人々の集まりです。これ以上、福運に満ちた、力強い大集団はない。これは絶対に外からは破れない。事実、どんな弾圧をされ、策略をされたとしても、今日まで創価学会は破れなかった。
「親しみより破るべし」――個人でいえば、自分のの中の油断である。学会でいえば、幹部の弛緩(ちかん)だ。幹部が王冥合の精神を忘れ、利に走っていく時、学界は破れていく。すべて破られるのは外からではなく内部からです。
 特に、信を忘れた世法的なつながりから団結は破れていく恐れがある。信もなく、「私はあの人がなんとなくお世辞を使ってくれるから好きだ」とか、「あの人は文句をいうからなんとなく嫌だ」といった世法的な行き方こそ、学会を破っていくものであると、厳しく互いに戒め合っていきたいとう。学会内に、信を忘れた、馴れ合いの妥協などがあったとしたら怖いことだ。飽くまでも峻厳な、純粋な信を貫いていくからこそ、学会は永遠に発展していくのです。
 病気を例に考えてみても、ほとんどが外からの原因で病気になるのではなく、内部の不調が病気の原因といわれている。一つの会社の繁栄・衰退も、多くの場合、内部がどうであるかによって決まる。一民族の興亡盛衰もまた大体、民族の内情によって決定されているともいえる。師子王のごとき、外敵にいっさい破られないものも、身中の虫のために倒されてしまうのである。
 したがって学会は、永久に異体同の団結、信の団結でいかなくてはいけない。公明党の場合においても同じことが言えるとう。段々発展して、何千人、何万人の議員ができる。すると今度は、あまりやかましく言う人もいなくなる。一方、市議会や都議会にいくと“先生、先生”と言われ、いい気になって、信を忘れてしまう。学会精神・革命精神を忘れ、その指導を聞こうとしなくなる。こうなったら大衆の味方でもなくなり、建設も開拓もなくなってゆく。本人も地獄に堕ちるし、その世界は破れていく。気をつけなければならないことです。


【『指導集 質問に答えて』 1967-04-02発行】


 もう少し前から引用しておく。

 外道悪人は如来の正法を破りがたし弟子等必ず法を破るべし師子身中の虫師子を食(はむ)等云云、大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし(957頁)


 広宣流布を阻む一凶を示された御文と受け止める。重ねて御書に云く、

 法を壊乱(えらん)するは法の中の怨なり慈無くして詐(いつわ)り親しむは即ち是れ彼が怨なり彼が為に悪を除くは即ち彼が親なり(139頁)


 更にまた云く、

 其れに付いても法華経の行者は信に退転無く身に詐親(さしん)無く一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば慥(たしか)に後生は申すに及ばず今生も災延命にして勝妙の大果報を得広宣流布大願をも成就す可きなり(1357頁)


 されば、注し合えない(「彼が為に悪を除く」)人間関係が「詐親」に当たるか。小さな遠慮が、後継の道を途絶えさせる。


 戸田先生が仰せになった、「敵は内部だよ」との指針もこれに当たるとう。


 随分前になるが、池田先生のこういう指導もある。「学会員はには強いが、功徳に弱い。10年、20年と信をして、功徳を受けて駄目になってゆくケースがある」と。


 昔、よくこんなことを先輩から聞かされた。「大きな会合で体験発表をすると、その人は更に伸びてゆくか、退転するかのいずれかである」と。


 皆から、「凄い、凄い!」と讃えられて、知らず知らずの内に増上慢となり、「凄い御本尊」から「凄い自分」へと錯覚してゆく。謙虚さを失った信は、脚光を浴びることでしか満足できなくなってゆく。こうして利の一丁上がり(笑)。


「信を忘れた世法的なつながり」とあるが、商売のための「組織利用」には十分気をつけて参りたい。


 但し、闇雲に注しまくって、不協和音を出すような真似は愚かだ。“信は厳しく、人間は温かく”というバランスが求められるのは言うまでもない。