「生命を尊厳ならしめるもの」15 池田大作

「殺」のを殺す


 人間は、生きるためには、他の生物の生命を犠牲とせざるを得ない。厳密な味で、生命の尊厳とは、生きとし生ける、あらゆる生命体について、その尊厳を認めるということである。ところが、人間は、一方で“生命は尊厳なものである”といいながら、他方では、その尊厳なる生命を大量に屠ることによって、自己の生命を維持している。いや、人間ばかりではない。ほとんどの動物は、その対象が動物であれ、植物であれ、生命体を自分の生命維持のための資源としているのである。
 自己の生命の尊厳と、一般的な生命の尊厳とは、ここで、重大なディレンマにおちいることになる。これは、人間を中にした場合、人間の尊厳という問題と、生命一般の尊厳という問題との矛盾になる。これに関連して、釈迦の言動を留めた書に、一つの興味ぶかい問答がある。それは、――ある人が、「生命は尊厳だというけれども、人間だれしも他の生き物を犠牲にして食べなければ生きていけない。いかなる生き物は殺してよく、いかなる生き物は殺してはならないのだろうか」と問うた。これに対して、釈迦は「それは殺すを殺せばよいのだ」と答えたというのである。
 質問のポイントは、殺してよい生き物と、殺してはならない生き物との区別を示せということにある。釈迦は、直接には、この質問に答えていない。だが、それは、はぐらかしたのではなく、より本質的に生命の尊厳というものを明らかにしているのだと、私は考える。
 生命の尊厳とは、あらゆる生命を尊厳と認める自身のの中にある。客観的にみるだけなら、いかなる生命も無常のはかない存在であり、悩におおわれ、悪に支配された存在にすぎないであろう。それが、人のに尊厳と映るのは、その人自身が、これを尊厳と見るからである。そして、そのいっさいの生命を尊厳と見るが、自己の生命を尊厳ならしめるのでもある。この客観と主観とが一体となったところに、真実の尊厳が現実化するのだといってもよい。
 こういえば、それでは尊厳と見たうえでなら、何を、どのように殺してもかまわないのかという疑問が起こるかも知れない。私はそれは違うとう。生命は、自己に関して、少しでも生きながらえようとする、自己維持の特質を本然的にもっている。いわゆる生存本能というように、識下の識にもそれはあるし、さらに深く、生命体の機能にもそれはそなわっている。他の生命を殺すということは、自己の生命のもっている、そうした特質、法則といったものへの違背になるわけである。そこには、単に、識の上での作為では変えられないものがあるとわれるのである。
 周知のごとく、キリスト教の原罪説は、アダムとイブが悪にだまされて、智の実を食べたことから、人類の罪が始まったとする。その智とは、善と悪とを判別する智であったという。このことは善悪の識が、人間のに罪を刻むのだということになろう。もし、そうであるなら、人間は、人間としての高度な精神機能を営みつづける限り、罪の消えることはありえないということになる。私は、そうではなくて、善と悪とをよく判断し、自らの醜さを深く省りみながら、しかも、その本源にある生命の尊厳を実しうるところに、人間の尊さがあるのだと考えるのである。

【『生命の尊厳/人間の世紀 第1巻』時実利彦編集(潮出版社1973年)第8章に所収】

「生命を尊厳ならしめるもの」14 池田大作

十界論に見る生命観


 文学を識の流れとしてとらえた、マルセル・プルーストの言葉に次のような一節があった。「私は、ただ一人の男ではない。私のの中を、ぴったりと列を組んだ兵隊の行進が、何時間も何時問もよぎってゆくのである。ある瞬間に私のをよぎる兵隊の格が、その時の私のなのである。ある時には、ひどく興奮した男たちが、または無関な男たちが、さらに次の瞬間には娯妬ぶかい男たちが私のを通りすぎてゆく。だが驚いたことに、嫉妬ぶかい男たちは、それぞれ別な女に嫉妬の炎をもやしているのである」
 たしかに、私たちは、自分のを冷静にふりかえってみるとき、瞬間瞬間、さまざまなが入れかわり立ちかわりして、とどまることがないのに気づく。スポーツや娯楽に興じているときの自分と、不愉快なことがあって怒っているときの自分、不幸な人のために役立ってあげることができて満足している自分と、のどが渇いたとか空腹だとかで、飲み物や食物を欲しているときの自分等々というように、さまざまに異なる。そのような変化のなかにも、一貫した自分があるのにちがいないが、瞬間瞬間の変化は、自分でも驚くばかりである。
 私は本論で、人間の尊厳への第一段階の運動として、旧約聖書を基盤とした一神教と、教そして中国の孔子老子を挙げ、その後、一神教世界がどういう変遷を辿ったかを通観した。そして、教と孔子老子については“神”ではなく“法”を根幹にしたものであったことのみ述べておいたが、この中でも教は、生命そのものを解明し、そこから自己完成の原理を導き出そうとしたものであったといえる。この教の説く哲理は、いかにも深遠で複雑なのであるが、こうした生命の多様を分析し、整理した概に十界論がある。十界の称は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・聞・縁覚菩薩で、この一つ一つの前は、日本人には馴染みの、いわば抹香臭さをじさせるものだが、生命の多様な実体を、見事に分析してみせた、合理的な索の結晶であると私にはえる。
 かんたんに、この内容、特質を紹介すると、地獄とは悶する生命であり、餓鬼とは貪欲な衝動の生命である。畜生とは、目先のことに捉われる愚かさ、修羅は闘争の、いわゆる平常の静かな人間らしいが人間界、喜び楽しむ生命が天界である。以上を六道といい、日常的な人間生活は、この六道を転々としているというのが、「六道輪廻」である。このように、瞬間瞬間生命が変転するのは、外界の縁によるが、受動的に、あるがままに生きている限り、この六道の範疇は出られないというのが、「六道輪廻」ということである。聞以上の生命は、自ら自己変革の志をもって、能動的・主体的に縁をつくり、実践していくときに、はじめて覚醒させることができる。聞とは先覚者の教えを求め、それに習って自己を変革しようとするであり、縁覚とはいわゆる飛華落葉の自然現象・宇宙の姿にいを凝らし、自ら覚りを得ようとするである。広い味では、書を読み、学問することに喜びを見出していく生命も聞といえるし、芸術的創造活動や、自然界や社会の現実の中から真理を究めることに無上の喜びを覚えるのは縁覚といえるであろう。
 界とは、宇宙と生命の本質、究極的真理を体得し、自己の不滅と、宇宙との一体を悟り究めた、絶対的なの状態である。それはいっさいを包容し、いっさいを生かしていく無限の智をともなう。教が説く、究極の理、自己の完全とは、この界の生命を確立することである。ここに理をおいて、自己変革に挑む道程の生命を、教は菩薩と呼ぶのである。広い味では、すべての生命に尊厳を認め、その幸福のために尽くす、無辺の慈悲が菩薩の生命である。母がわが子の幸せを願う、限られた対象に向ける慈愛も、「菩薩の一分」と説かれる場合もある。
 ともあれ、教は、界の生命を顕現することを理と説くが、元来、この十界は、すべての人、すべての生命体にそなわっているものであって、たとえば地獄の生命が悶のであるからといって、これをなくすことはできないとする。生命体とて現実に存在する限り、しみ悩むことは避けられない。欲望もまた、生命体の機能として、必然的にそなわっているものである。逆説的ないい方になるが、こうした悩があればこそ、楽しみが楽しみとしてじられるのであり、欲望があればこそ、満足が味わえるのである。
 要は、地獄の生命におおわれ埋没してしまったり、餓鬼界の食欲な衝動に支配されるのでなく、界の生命の確立をめざし、菩薩界の生命活動を基軸として、こうした十界の生命を賢明に、主体的にリードしていくことである。ここに、カントのいう「自己白身の完全と――個人幸福」を同時に具現する、実践的哲学の原理がある、と私は考えたい。


【『生命の尊厳/人間の世紀 第1巻』時実利彦編集(潮出版社1973年)第8章に所収】

「生命を尊厳ならしめるもの」13 池田大作

生命の尊厳観と自己変革


 ちょうど、現代人のは、法と秩序の復活が自由の喪失になることを危惧しつつ、しかも、その再建を願わずにいられないといった状態にあるといえないだろうか。したがってここで明らかにしなければならないのは、人間の自由が抑圧され、奪われるのは、いかなる場合であり、どのような宗教であれば、いわゆる人間としての自由を奪うことなく、しかも、確固たる基盤を人間存在に与えてくれるかということである。その場合、尊厳なるものを外界の事物や、超越的な存在に求めるのでなく、生命そのものを尊厳とするのでなければならないことは、すでに述べたとおりである。これまでの宗教において、人間の自由が抑圧され、歪められたのは、その説く尊厳なるものの実体が、あくまで現実の人間を肯定したところにあったからである。
 人間の自由への願望を満たしつつ、しかもその精神の拠りどころとなるべき宗教は、生命それ自体を、そのあるがままの全体において尊厳とするものでなくてはならない。もとより、それだけでは、いっさいが自由である代わりに、それを自己の昇華のための規範とすることは不可能である。生命とは、あらゆる要素と可能を秘めた、複雑にして多様な存在であるが、どのようになることが望ましいかを描くことはできるはずである。たとえていえば、種々の欲望は、あらゆる生命に本然的にそなわる特質である。だからといって、欲望に無制限に身を委ねれば、まわりの人々を傷つけ、わが身を滅ぼしてしまう。そこに、欲望を賢明にリードできる理なり道徳律といったものが、その人の生命に内在化しなければならない。
 これは、まことに複雑にして解な課題であるが、そこに生命ないし人格の理像を描き、この理を自己の生命に実現することをめざして、自己変革に挑むのである。それは自身における“尊厳”を、単なる一般的原理としてのそれから、具体的現実としてのそれへ転換するものとなろう。それと同時に、他に対しては、どこまでも、その生命を尊厳と認め、その幸福を願って行動していくべきである。なぜなら、その人の信から行動として体現化されたものは、同時にその信をより深め、生命自体を変革していくからである。
 カントが「君は、君の人格の中にある人間と、また他のすべての人の人格の中にある人間とを、常に同時に目的として取扱い、けっして単に手段として取扱わないように行為せよ」といい、「人間にとって、目的であるとともに、同時に義務であるところのもの」は「自己白身の完全と――他人の幸福である」というのも、まったくこの味であるとう。しかしながら、「自己自身の完全」とは、いったいどういう状態をいうのか。これが明らかにされなければ、この議論は、単なる概の提示に終わってしまうであろう。


【『生命の尊厳/人間の世紀 第1巻』時実利彦編集(潮出版社1973年)第8章に所収】

「生命を尊厳ならしめるもの」について


 Felixさんが作成したレジュメを今見つけた。『池田大作全集』第1巻に収められていたとは知らなかった。

「生命を尊厳ならしめるもの」12 池田大作

宗教的信の問題


 生命の尊厳ということは、あらゆる生命は尊厳であるということである。そこには、尊厳視すべきであるという味を含んでいる。尊厳視すべきだということは、尊厳じうる識をもたないものには、所詮、無味であるから、人間をその主体として、はじめてこの理が存在しうることも、いうまでもない。そして「あらゆる生命」ということは、自己の生命のみであってはならない。自己と関係の深い人々の生命のみであってもならない。さらに、人間生命のみであってもならない、ということである。
 ところが、現実問題として、同じ人間同士でも、好をもてる人もいれば、どうしても好をもてない人もいる。単に情的な好悪の問題でなく、生命の安全を脅かしてくる人の場合もある。まして、他の動物などにいたっては、その生命を尊厳と認めようといっても、とうてい無理だという場合が少なくはない。したがって、あらゆる生命に尊厳を認めるということは、それを信とする以外にない。そうと決めるということである。これは、もはや、経験的な次元から帰納的に出てくることではない。自ら定めた信であり、そこから、演繹的に、これを規範として行動し、生きる姿勢を確立していくのである。
 古来、こうした尊厳観が本来、宗教や哲学を基盤として出てきたのは、このためといってよい。また、こうした人生の規範、人間としての拠りどころを説き示したものが宗教であり、その本質を探求しようとしたものが、哲学にほかならない。
 宗教は、それぞれに、尊厳とすべきものを立てた。多くの場合、人間は罪を負ったものであり、悪に染まった存在とし、尊厳なるものは、天上あるいは彼岸にあると説いた。そして、そうした遥か彼方の尊厳なるものに自己の生命を帰することによって、罪の重荷を取りのぞき、浄化されて、その栄光にあずかることができると教えたのである。この救いの約束のもとに、人々は、現実の人生に規範を定め、一種の安と充足をもって、生活を営むことができた。今日、そうした宗教が凋落してしまった原因は、もちろん宗教自身にもあるが、人々の関が現実生活に集中してしまったことにもよる。秩序や法を失った社会が成り立たないように、人間の精神世界も、拠るべき規範を失ったときには、混乱し停滞して、行きづまってしまうものである。


【『生命の尊厳/人間の世紀 第1巻』時実利彦編集(潮出版社1973年)第8章に所収】

「生命を尊厳ならしめるもの」11 池田大作

3.生命の尊厳を考える視点

規範としての尊厳観


 すでに述べたように“生命の尊厳”という理を確固たるものにするには、生命とは、いったい何であるのか、を明らかにしなければならない。ただ、その前に、尊厳とはどういうことなのかという点について、明確にしておく必要がある。文字通りの味は「尊く、厳(おごそ)かなこと」であるが、それだ
けでは、あまりにも漠然としている。これについて、カントは『人倫の形而上学の基礎づけ』で、次のように述べている。
「目的の王国においては、すべては価格を有つか、あるいは尊厳を有つかである。価格を有つものは、その代りに、他の何ものかを等価物として置くことができる。それに反し、すべての価格を越えて尊いもの、したがっていかなる等価物をも認め得ないものは、尊厳を有つのである」(高坂正顕訳)
 つまり、カントによると、尊厳とは、いかなる等価物をも置くことができないこと、あらゆる価格を越えたものということである。とするならば、尊厳ということは、そのもの自体において付随する特質ではなく、そのかけがえのなさをじてくれる、識者との関係において成り立つものである。卑近な例でいえば、きわめてありふれた万年筆であっても、長い間使って愛着があるとか、それがその人にとって生涯忘れることのできないい出の記であるとかいった場合、どんなに大金を積まれても手放せないということもあろう。それは、その人にとって、それなりに“尊厳”をもっていることになる。
 同様のことは、動物についてもいえるし、人間については、なおさらである。一人の人間は、さまざまな味で、いろんな人と深いつながりがある。そうした、関係のある人々にとって、その人の存在は、他に代えられないものである。このため、その人が死んだり、遠い土地へ去ったりすると、の中に空洞が生じたようにずるのである。関係が親密での中に占めていた比重が大きければ大きいほど、そのあとの空洞も大きいわけである。そういう味では、あらゆる人が、それなりに尊厳をもっているし、あらゆる動植物や物体も、尊厳を秘めているということができる。ただ、その尊厳が、事実の上で、つまり実的な識として具現するかどうかは、それをずる人のによるといわなければならない。
 しかしながら、いわゆる“生命の尊厳”ということは、こうした情と同等に論ずべきものではない。個人的な向や、生活経験の結果として、具体的な個々の人間・生命にずる尊厳ではなく、普遍的な理として、具体的な行動や態度の起因となるものである。もし、そうでなければ、その生活経験や個人向から、ある物体や人間あるいは理に尊厳を認める人が、そのゆえに他の人々の生命を犠牲にするといったことも、当然ありうるし、それを容認することは、生命の尊厳という理にかけられている期待を裏切ることになってしまうからである。


【『生命の尊厳/人間の世紀 第1巻』時実利彦編集(潮出版社1973年)第8章に所収】

「生命を尊厳ならしめるもの」10 池田大作

侵蝕される生命の連鎖


 これは、理的・精神的な人間の崩壊現象であるが、生理的・肉体的にも、人間をむしばむ、恐るべき現象が顕われてきた。産の発達によって、自然が破壊され、生活環境が著しく汚染されはじめたのである。産が自然のリズムに秘められたカを、そのまま活用していた段階では、破壊も小規模であり、汚染も、自然現象の流れの中で還元され、再生されることができた。しかるに、科学技術の発達によって、本来、地上の生命的世界にとっては、異物である重金属や、石油を原料とする高分子化合物が、生命の連鎖の中にまぎれこみはじめたのである。
 中枢神経を冒す水銀、激痛を伴って骨を軟化させ、背丈が縮んでしまう“イタイイタイ病”を起こすカドミウムなどは、そうした重金属類の代表である。高分子化合物の例としては、DDTBHCなどの殺虫剤、PCB等の薬品類がある。いずれも、動植物の体内に吸収されるが、元素である重金属は当然、高分子化合物も、きわめて安定した構造をもっているため、破壊されないまま、それらの動植物を食べた人間の体内に取りこまれ、蓄積されていく。その蓄積量が、ある許容限度を越えると、悲惨な症状を呈し、廃人にしてしまうか、死に至らしめるのである。
 もとより、具体的にそうした症状があらわれたという例は、いまのところ、限られた地域の、限られた人々にしか見られない。だが、汚染は、地域差はあるにせよ、地球的規模で進行しており、その進行の速度は、年々加速されている。もし、このまま進んでいくならば、やがて、被害は、全人類の上にふりかかってくるにちがいない。繁栄のための生贄というには、原始社会の生贄に比べても、あまりにも悲惨であり、残酷ではないか。
 ともあれ、近代以後の科学技術のカによる物質的豊かさへの努力は、それが人間の幸福、生命の尊厳を現実に保証するであろうと信じられたからこそ、飽くことなく続けられてきたのである。ところが、その繁栄を謳歌している産社会において、精神的にも、肉体的にも、尊厳なるべき生命に対する深刻な破壊が生じてしまった。それは、文明時代に入って以来、大部分の人々を導いてきた、短絡的考――すなわち、社会の体制、機構を変えれば幸福は保証される、とか、物質的に満たされれば幸せになれる、といった考え方――の根本的欠陥を露呈したものといってよい。
 社会体制と幸福、物質的豊かさと幸福とは、直接に結びつくものではなく、人間生命という、捉えがたいが、無視することのできない実体が、その間にあることを識せざるを得なくなったのである。いな、それは、単に中間にあるなどというものではない。実は、この“生命”こそ、いっさいを包含する全体であり、生命の尊厳をこそ、何よりも優先して考慮しなければならないことが明白となったのである。もとより、そうした考え方は、過去にも幾多のすぐれた人々が提唱してきたことも事実である。言いふるされたことでもあり、当然の道理でもある。
 それにもかかわらず、なぜ言いふるされるのみで実現しなかったか。なぜ当然の道理が現実にならなかったか。それを私は、人間の原始以来の基本的考と、社会原理、文明の理のなかに、これを根本的に否定する要因があることを示した。そして一方、この当然の道理を実現するために、さまざまな形で、変革の試みがなされたけれども、これらの人間の考や、社会原理、文明の理そのものを変えることはできず、今日にいたった失敗の歴史を明らかにした。この失敗の原因をひとことでいうなら、人間生命の核的把握がなされなかったことにあるということである。
 実体への核的把握と程遠い、たんなる抽象的な言葉や、盲目的・受動的に身をゆだねた信では、現実変革のカとはなりえない。生命とは何か、なぜ尊厳であるのか、また、いかに行動し、どのように社会と文明を創造することが、生命の尊厳という原理を保証するのかという、明確な識と、能動的な行勤があって、はじめて、生命の尊厳は確たる実体をもつことができるのである。


【『生命の尊厳/人間の世紀 第1巻』時実利彦編集(潮出版社1973年)第8章に所収】