絶望の淵で掴(つか)んだもの


【女子部】まりん


 2005年夏の私の闘いの記録を書かせて頂きます。


 まずは、私の生い立ちから語らねばなりません。


 私は、どうしても母が好きになれないまま大人になりました。父のことは大好きです。大変温厚で私の事を包んでくれる人です。母の方は……私のことを、母なりに愛してはいるのでしょうが、ほとんど愛情としてじることができないまま大きくなってしまいました。


 元々、ウチの教育方針は、父と母は正反対でした。母は、私の欠点ばかりを取り上げ、注指導して自覚させるやり方。
「アンタはこれだからダメなのよ! ここを治しなさい!!」
父は、いいところばかりを集中的に褒め、そこを伸ばす教育を私に施しました。
「お前には、お前にしかないいいところが一杯あるんだよ。お父さんはお前のそんなところが大好きだ」
 その正反対な教育を、私は同時に受けて育ちました。つまり、母にいっきり叱られたあとに、直ぐ父がフォローを入れる。そんな毎日を過ごす私は、正直どっちに従うのが正しいのか混乱して大きくなりました。


 両親なりに愛情を注いでくれるのは、子供なりにわかります。ただ、正反対なものを同時にされても……ただただ困ります。それも、両親とも共通項がひとつありました。「過干渉」です。
「親のいう事にちゃんと従っていれば、お前は立派な大人になれるから、安しなさい!」


 こんな風に、勝手に未来のレールを敷かれ、私のいや見よりも、親から見た理的な子供の生き方を勝手に最優先されてしまいました。それを嫌だ嫌だとでは反発しながらも、それをどう親に伝えるべきか、その手段も学べないまま、が次第に歪んでいくのを薄々自覚しながら、密かに気持ちを押し殺して成長しました。


 大らかで寛大な父には、それでも安を持って「お父さん」と甘えることができました。しかし、母には……母だけには……。


 私には、決定的に母に裏切られたい出を忘れることができません。もう、25年も前のことです。小学生だった私に、幼いながらも耐えいことが押し寄せました。「イジメ」です。


 最初は単なる数人の男の子からの冷やかしで始まりました。最初は私も、「嫌だなぁ……」といながら笑って済ませられる範囲でした。それが……日を追うごとにエスカレートしていきました。気がつくと、クラス中の男子からイジメを受ける毎日になっていました。そうなると、もう止まりません。男子だけではなく、女子たちからの無視もはじまります。変に我慢強かった私は、必死で耐えました。更にイジメは飛び火をはじめ、学年全体にまで広がっていきました。廊下を歩けば、他のクラスの知らない男子から罵を浴びせられました。、教室につけば、既に待ち構えていた男子たちから悪口の洗礼を毎日受けました。


 それでも、親には言えなかった。やっぱり、子供として、自分の親には配を掛けたくはありませんから。けれども、我慢にも限度はあるのです。ある日、給食の時間。順番に並んでいると、直ぐ前にいる男子から「お前は、うぜーから並んでんじゃねぇ! 近寄るな、どっか消えろ!」と言われて、自分の中の我慢が切れました。大で泣き出してしまったのです。さすがに担任の先生がイジメの実態に気づき、私を守ろうとしてくださいました。


 しかし……先生のやり方にも、大変傷つきました。先生は、あろうことか「緊急学級会」を開きました。しかも、デカデカと黒板に書くじゃないですか!!「まりんちゃんのイジメについて」と。そして、イジメの首謀者である男子数人を立たせて問い詰めました。「どうして、まりんちゃんをイジメるの!!」


 ……先生、それは大変逆効果です……。私を守って下さる気持ちはありがたいですし、先生を悪くはいません。しかし、その後の状況はひどくなるばかりであることは言わずもがなです。


 もう、どうしようもなかった。守ってもらえるはずの先生にも頼れず、学校での居場所を奪われた小学生の私が最後に頼るところは、やはり親しかありません。


 ある日、恐る恐る母に切り出しました。
「お母さん……私、学校でイジメられてる……」
 母なら、当然護ってくれるものと信じていました。母は私をチラッと見ると、きつい眼差しでこう言い放ちました。
「イジメられるお前が悪い。お前が弱いし何も言えないから相手はイジメるんや。悔しいなら、相手に言い返しなさい!!」


 必死のいで、“助けて欲しい”と娘が差し伸べた手を、母は平気で振り払った。の底から愕然とした。言葉になりませんでした。親しか頼る事の出来ない子供時代に、親子としての決定的なダメージを受けてしまった。


 それ以来、私は正直母を母として認められなくなってしまったのです。実の母親が、実の娘に平気で出来る事なのか。底信じられませんでした。これでは、まるで継母(ままはは)です。


 結局、母は一切取り合ってくれず、配して家に連絡を下さった先生にも「大丈夫です。あの子、それでもちゃんと学校に行ってますから」と言い放った。


 家にも居場所がなければ、結局、辛くとも学校に行かざるを得ない。そんな、まだ幼い私の情をも、母は一切汲んでくれませんでした。そのまま、私は小学校を皆勤で通いました。


 父には、イジメのことが話せませんでした。父が帰宅する前に、母にイジメのことを話してしまってこんな仕打ちを受け、とてもではありませんが父に訴えることが出来ませんでした。


 もし……もしも、父が母と同じ事を私に言ったとしたら……。私は、本当に生きていく場所を失うからです。とても怖くて父に聞けませんでした。私の母に対する決定的な不信はこの幼いときから離れなくなりました。


 それでも、どんなに反発しようが血のつながりだけは解消できません。いくら母親を取り替えたくても、そうはいかないのです。母の温もりを否定しながらも、私はのどこかで母を信じたい気持ちは常に持ち合わせていました。


「母は嫌い。信用できない。けれど、やっぱり母に愛されたい、母を認めたい、認めてほしい」
 いつも、がそう叫んでいました。けれど、いつも母に裏切られました。どうしてそんなこと言うの? どうしてそんなことをするの? ということばかりです。その度にショックを受けながら
「ああ……またか。仕方ない、いつもの事だ」と自分をあきらめさせていました。


 以前から凄い仕打ちを繰り返してきた母が更に迫力を増したのは、ここ数年のことです。


 私には兄がいます。母は一人子で優等生の兄を大変大切にしています。今は家を出て暮らしていますが、週末になると戻ってきます。兄が家を出てから、母は更に兄を可愛がるようになり、愛情注ぎの兄弟格差がもろ出しになってきました。


 夕食のおかずを差別するのです。凄いですよ! ある日、うなぎがメインディッュで出ました。母は私にピシャリ。「これは兄ちゃんが食べるんだから、お前は食べないでね」ひと切れも私に与える事はしませんでした。それどころか「もし、兄ちゃんが食べ残したらば、それは食べていいよ!」と平気で言います。私は。母にとっては野良犬と一緒なんでしょうか……


 それでも私は、精一杯の親孝行をしようと、両親を長崎旅行に行かせました。私は仕事の都合で一緒には行けなかったけれど、全額両親の旅費を出資しました。父も母も喜んで帰ってきました。謝の言葉を述べる両親に私も嬉しさが一杯でした。


 が、喜ぶのもつかの間……。母は、お土産のカステラを、全部兄に渡してしまいました。さすがの私も激怒。「私には食べさせてもらえないの!」。母は悪びれもせず、こう言い放ちます。「そんなに怒らなくても……アンタには、また行った時、買ってきて上げるからいいじゃないの」。


 こんな母、日本に何人いるのでしょう? 私は怒りで頭が変になりそうでした。


 こんな仕打ちを繰り返されても、私は実家を出ませんでした。資金がないわけは一切ありません。私は“貯金王”を自称するくらい、財力には自信がありますので。


 家を出ない理由は他にありました。「今直ぐにでも出てゆきたいけれど、出たら最後、一生母を許せなくなるのは目に見えている」からです。何か、何かきっかけがあれば、きっといつかの底から母を許し愛せる日がくるのではないか。わずかな希望をこれでも持ち続けていました。それまでは、我慢して耐えよう。私の精神力ならまだまだいける! と。あの、壮絶なイジメでも耐え抜いたんだからと、自分を奮い立たせている節(ふし)がありましたね。


 そんないを母は知る由もなく。そこまで言うか! という言葉をまだまだ平気で私に浴びせ続けます。


「アンタに毎もらってる食費が足りない。こんな額で暮らしていけるとってんの?」
 確かに多いとは言えませんが、私は就職してから毎欠かさず2万円を収めています。
それが足りない、というのです。兄も私と同額払っていましたが、文句を言うのはなぜか私にばかりです。第一、兄弟で4万払って、更に父の収入を加えると、我が家の食費って毎いくらかかるのでしょう。4人家族で一人2万で最低8万?? あり得ない額ですがな。そんな毎日豪華な食事はしてません!! どうしてそんなイチャモンを私に言うのか、全く気が知れません……。


 私には自分で凄いなぁとする部分が一つだけありました。
「よくぞ、グレずに大人になった!」
 多な時期に、グレてやりたいとの欲求もありました。両親とも母の教育法で私が育ったなら、間違いなく非行少女へ変貌したことでしょう。 けれど、父の大きな愛情が、私のそのいを阻みました。


「お前には、お前にしかないいいところが、たくさんあるんだ……」
 その言葉に、いつも後押しされていました。父をがっかりさせたくない。父の私への言葉が、いつもに刻まれていました。自分が傷ついた時、いつもその言葉をい出し、信じ抜いてきた。
「こんな私でも、認めてくれる父親がいる!」


 しかし、母の壮絶さは日を追うごとに増すばかりです。私は学会指導で母の偉大さを池田先生がおっしゃるたびに、
「ウチには当てはまらない。ありえない」といました。「母は一家の太陽である」――そんな指導もありましたが、その言葉を聞いた私はただ落胆するしかありません。誰にもそのことは言えませんでした。身内のことを人にさらけ出すには勇気が要る事です。まして、ウチは両親とも支部幹部です。親の体面をうと、とても言えませんでした。


「♪母よ あなたは なんと不議な 豊かな力を 持っているのか」
 有な”母”の歌を聞くたび、が疼(うず)きました。吐き気がするくらい、不快になりました。母は偉大なのか? ウチの母も例外なくそうなのか? 確かに良くも悪くも子供への影響力は甚大ですけれど……。本当に辛かった。哀しかった。


 悩みがあるなら祈ればいい。自分でもわかっているし、一番の近道です。けれど、どうしても母の事だけは祈れません。辛くて悩んでいても、母の事だけは、題目として、御祈として、私のには浮かぶ事すらできないのです。


 そして今年の5ゴールデンウィーク。またひとつ事件が起こります。母は書棚を整理していました。もう、長年の学会関連の書籍で一杯の書棚でした。中には他に、兄の趣味の車の雑誌等、家族のものも入っています。母は書棚に保管してあった、私の高校卒アルバムを引っ張り出してきました。


 そして、イライラした口調で私にアルバムを差し出してこういいました。
「アンタ、コレ滅多に見ないし要らないやろ! 邪やから処分するよ!」


 ……絶句しましたよ。母には今まで色んなことを言われ続けてきましたけれど、ここまで来たか! といましたね。


 私は動揺のあまり震えるで抵抗します。
「私、もう二度と、高校に行きたくても行けないんだよ。大切な記品だから、いるよ。捨てないでよ」
 冷静になれ。冷静に……崩れそうなに自分ではっぱをかけ、私は持ちこたえようと懸命でした。


 次の瞬間。私のいは見事に打ち砕かれました。母の追撃です。
「ええ?? いるのこんなもの!! 邪やから捨てたいのに!! ぶつぶつ……」


 私の中で、明らかに何かが壊れました。の中が真っ暗闇になるのをハッキリ覚えました。あまりのむなしさに、目から涙さえでませんでした。泣きたくても泣けない、言いようのないいが私の全身を駆け巡りました。


 恐らく、私はその瞬間からうつ病へと転落したといます。まだ、自分自身に「私は健常者」とのプライドだけは捨ててませんでしたから、精神科には行きませんでしたが、まず間違いなく病院にいけば診断が降りたでしょう。


 もし、学会っ子でなければ、私は頼るとこはやっぱり精神科しかなく自ら病院の門を叩いたでしょう。けれど、「学会っ子」であり、信の確信もそれなりにある自負をもつ私には精神科に行くことは“恥”である。そんな考えが私を押しとどめました。


 以来、私は人が怖くなりました。誰にも会いたくありません。私のカレシ君とは付き合いが長いのでいいですが、学会活動で同志に会うことがこの上なくキツく、辛く、拷問のようにじました。楽を分かち合ってきた、許せる同志のはずが……次第に学会活動から足が遠のき始めます。


 その頃、仕事でも賞与を減らされてからの闘いも続いていました。実は前年の夏、賞与を突然10万円も減らされ、一年近くも私は職場から干された状態にいたのです。それでも、ずっと、あきらめず密かに闘い続けていたのです。


 お金を減らされた腹立たしさに仕事をやめるのは簡単、仕事の質を落とすのも簡単。けれど、それは法者のすることではない。しいけれど、私は絶対にあきらめない! と誓って仕事を続けていました。「減らされた10万円分、仕事の質を上げよう。あなたは職場に居なくては困る、そういわれる存在になろう!」と。


 まさに職場も、家も、休めるところはどこにもありませんでした。まるで、イジメを受けていた“あの頃”の再来です。そして、私のうつ病は進行していきます。まさに、「のダブルブッキング」です。今まで味わったことのない、とてつもなく非常にしい生命状態に置かれました。


 そんな時……皆さんならどうします? やっぱり基本は題目だ! とうでしょう?? 私もずっとそうっていましたよ。


 けれども、自分がうつ病になってみて、初めて知ったことが一杯ありましたね。うつ病患者にとって、自分で唱える題目がとてつもなくしいことを。まさに、「生命への拷問」です。


 私は、母の言葉にノックアウトしてしまった自分を情けないとっていました。うつ病の本質は「自分の不甲斐なさへの責め、自己否定の生命状態」です。自分を否定しているのに、題目を上げるとどうなるか、説明しましょう。


 題目……それは学会員さんが知っているように、「自己の生命への賛嘆の言葉」です。自己否定のうつ病患者が題目をあげると、生命が混乱を起こすのです。それはまさに、「右手でお前はダメ人間だと自分の頭を殴りながら、左手で偉いね! 凄いね! と自分を撫でて褒める」そんな状態に置かれるのです。私も例外なく、その状況に置かれました。それは、幼い頃から両親に受けた“正反対の教育方針”を同時に施されて困惑した精神状態に似ていました。


 頭では「題目が特効薬」と信じていても、生命が受け付けないので、題目も少ししか上がらない毎日でした。それでも、諸天善神は私を護るものですね!
「もう、駄目かもしれない」
 そんないになったとき、携帯がやかましく鳴り響きました。隣の市に住む、学会員の友人です。しかし、私は電話を取りません。誰とも話したくない、ましてや学会の人とは。そんな生命状態です。


 友人は携帯に出ない私の生命状態を直したようでした。何度も、何度も、呼び出しを切っては鳴らすのです。私が出るまで何度も何度も……たまりませんでした。


 私は仕方なく折れました。真摯な友人のいには流石にかないません。電話を取りました。「もしもし……」つとめて普通に話しかけると、友人は大で問いかけてきました。「まりんちゃん!! なんか悩みあるんやろっ!!! 私には隠したってわかるんやから!!!!」
 彼女の強引な押しを遠慮できず当日に会うことになりました。彼女に、初めて母親の実態を吐露しました。ずっと懸命に耐えてきたが、それ以上の勢いで更に母から追い詰められていると。


 彼女は言いました。
「私も、実は母が嫌いなんだよ。私も人に言えなかった。やっぱり、母親は自分にとって一番身近で大切であって欲しい存在だよ。けれどね、ウチの母も全然優しくないんだ。私を追い込むような事を言うよ。やっぱり、まりんちゃんの眷属なんだね、私も。だからね、まりんちゃんが本当に辛くて伏せてきたことを今日話してくれてほっとしたし、嬉しかったよ。私だけではなかったんだ! 母のことで悩んでるのはってったよ。まりんちゃん! 悩みってね、乗り越えられるときに出て来るんだよ。信ってそうなの。それを疑ってはダメだよ。私の知ってるまりんちゃんなら絶対に大丈夫だから! 安しなよ」
 真剣に私を見つめて語る彼女の真に、オアシスを得たような気持ちになりました。


「ところで、その話。私以外の誰かは知らないのね?」鋭い眼差しに彼女は変わります。「うん、誰にも言えない」私がそういうと、即座に怒られました。
「まりんちゃん何言ってるのよ!! こんな時こそ、指導を受けないとダメじゃないの! そこまで悩んでいて、どうして隠すの! 直ぐに婦人部長に指導を受けなさいよ」
「で、でもぉ……(汗)」
「でも、じゃないの!! わかった?? 帰ったら直ぐだよ! 絶対受けなきゃダメ!」
 身を乗り出すように、彼女は私にを押しました。乗り気にはなれませんが、彼女のいを無にするような行動は流石に取れないと私はいました。


 支部婦人部長かぁ……。帰り道、とぼとぼ歩きながら悶々としていました。母は支部副婦人部長。支部婦人部長は、もちろん、ウチの母を一番見ているでしょう。だからこそ言いにくい。母が学会でどんな顔をして活動しているのかは私はよくわからないけど、母の表と裏、外と家の顔がこんなに違うって知ったらどうわれるのかな。そんなことを考えたりもしました。でも、友人は「女子部よりもこういった件は婦人部幹部が適切」と私に言い切っていました。やっぱり、指導受けるのは支部婦人部長かな……。


 支部婦人部長に電話、しようかな……。そうった瞬間、ウチの女子部部長の顔が浮かんできたのです。不議でした。


“私、部員さんが悩みを抱えているのに、それを知らないでいるのは絶対に嫌なんです!!”
「ああ、いつか二人でお茶を飲みに行ったとき、部長、そんなこと言ってたっけ……」


 どうしてこのタイミングで部長の顔とあの言葉をい出したのか。よくわかりませんが、何度も何度も私のにリフレインをします。


支部婦人部長には指導をキチンと受けるとして、まず私の組織の部長にも指導を受ける報告をしておかないと……。部長、どうしてまりんさんのしみに気がつかなかったのか、って自分を責めちゃうかも……」


 私はそういなおし、まずは部長にメールをしました。直ぐに、部長から返信が来ました。


「メールありがとうございます! 今、最近まりんさんに会ってないしどうしているんだろうとって題目をあげていたところです! 本当にびっくりしました! けれど、凄く嬉しかったです! 明日、よかったら一度私とお茶にいきませんか? 色々お話できたら、といます」
「え……部長……」
 私の方こそビックリしました。何? 「今、祈っていたところ????」これが、“一三千”ってやつ??? 私は、わけもわからず部長をい出して気になっていたところです。


 以、って言葉は、やっぱり一三千という法則があるからこそなんですね。本当に、法は凄いといました。


 翌日部長と語り合いました。今までの母との関係。友人に話した全てをいのまま語りました。題目を唱えるのが非常にしいということも。


「まりんさんが何か悩んでいるのだってことは、最近会合で会わないので、薄々じていましたが、そういうことだったのですね……」
 部長はそういうと、少し間を置いて続けました。
「私、うまく励ますことが出来たらいいんですけど、どうしたら、まりんさんのを軽くして解決に導いてあげられるか、本当に力不足で言葉になりません。支部婦人部長なら経験もありますし、私なんかよりもっと頼りになりますから、もし、よかったら私から連絡していいですか? お二人で話し合いしづらいようでしたら、嫌でなければ私も含めて3人で指導受けませんか」


 私は部長の提案に、から謝しました。やっぱり、支部婦人部長に自ら連絡を取るのは気が引けていましたから……。「是非、3人でお願いします」。私は部長に指導日程をお任せしました。


 部長からメールがきました。日程が決まったと。一緒にお茶しながら語ろうということになり、その当日がやってきました。


 待ち合わせの時間にお店に行くと、支部婦人部長だけがいらっしゃいました。
「あれ、部長はまだですか」
「うん、ちょっと遅れるって言ってたよ。まりんちゃん、いらっしゃい。よく指導を受けようってって下さったわね。私、安したのよ。指導を受けるって決めたときから既に、解決は始まっているから、まりんちゃんも安なさい」
 そういって支部婦人部長はにっこり笑い、
「まりんちゃん、別に私と二人でもお話できるわよね? 部長は白蓮もやってるしいつも忙しい子だから、まりんちゃんが私と二人でも抵抗なければ、部長には席を外してもらったほうがいいかも知れないわね」
「そうですね……」
 婦人部長の話しやすそうな雰囲気で、その提案に異論はありませんでした。私はメールで部長と連絡を取って、支部婦人部長と二人でお話することにしました。


「実は……」
 私は母のことを語りました。私の母への情の亀裂が、小学校時代のあの事件にあるという事も。
「……」
 支部婦人部長はじっと私の話しにを傾けていました。そして、おもむろに切り出しました。


「私ね、以前からまりんちゃんを配していたのよ。“この子は危ないなぁ、危ないなぁ……”って。何度かあなたと話してみて、ずっとってたけれど、あなたは話し方からして理論的だし、凄く頭がいいのよ。けれども、そういった頭のよさが、恐らく結婚した後で変な方向に行く。ずっとそれを警戒していたの。あなたは頭がいいから、何でも自分で考えるのよ。で、自分の中で結果を出してしまう。だから、他の人なんかに比べて、ほとんど自分から幹部に指導を受けようなんてしないわ。それだから今回、よく指導を受けようとったなって私、嬉しかったのよ。と同時に、人に言うくらいだからよっぽどのことだろうとってた。話しを聞いての直接なは、“いつかこのことで悩むだろうな”とずっと私はっていた。というところね」


 支部婦人部長はそう語ると、私の目を真っ直ぐに見ていました。
「えっ……いつか悩むって?! そうっていた……と?」
 私は絶句しました。まさか、そんな回答が先に出てくるとは。


「まりんちゃんのお母さんは、確かにキツイところがあるという印象はあるわ。自分でもそれは、わかってるとはう。で、なるべく人前でそれを出さないようにしてるよ。けど、時々出ちゃうのね。たまに“ギョッ”とするようなことは、おっしゃるわね」


 母に対する所を簡単に述べて、支部婦人部長は続けます。
「まりんちゃんが、お母さんとの情の亀裂の原因が小学生時代にあるって、よく、自分で知っているわね!! 私、凄いとった。普通、そういう根本原因は、精神科の先生の所に行って調べて初めて発見するものよ。やっぱり、あなた頭がいいのよ。それにしても、これだけはハッキリ言うけれど、間違っているのはお母さんの方。“イジメられる自分が悪い”なんて……。もしも、まりんちゃんが病院に行くようになってその時の状況を精神科の先生に言ってご覧なさい。絶対にお母さんが烈火の如く叱られるわよ。『あなたがお子さんを追い詰めたんだ!』ってね。まりんちゃん。あなたが間違ってるのじゃない。それだけは絶対なんだから、決して自分を責めなくてもいいの。安なさい」


 その言葉を聞いた瞬間、私の目からどっと涙が溢れて止まりませんでした。


「まりんちゃん。信ってね、ずっと持続するためには、どうしても師弟の絆を女子部時代に自分から、つくって行くことなのよ。それがないと、いざというときに信がポキンと折れてしまうの。結婚して婦人部に行けば、もっともっと凄い宿命の嵐が吹き荒れるわよ。そのときに“師弟”がなければね、アッという間に信が崩れるの。女子部時代に生命に師弟を刻みこむ、それは鉄板に文字を刻み込むと同じこと。二度と消えない信を確立できるってことなの。婦人部になってからでは遅いわ。婦人部で師弟を学ぼうとしても、それは氷に文字を刻むようなもの。いずれ溶けていってしまう。あなたは、今この時に崩れない信を確立なさい。その時が来てると、私はうわよ。師弟はね、待っててもわからないの、自分から、先生を求めていくの。そうすれば、師弟とは何かって、必ず見えてくるから」


 支部婦人部長はそういって、自らの女子部時代を語ってくれました。胸のつかえが、すーっとなくなっていく。久々に、スッキリするものを私はじていました。元気を取り戻し、私は学会活動に復帰できるようになりました。


 しかし母はやっぱり、相変わらずです。やはり、とんでもない仕打ち、言動は続きました。


 そして、時は過ぎ。8に入りました。またまたひどい言葉を投げかけられたある日のこと……。私は、押さえきれない鬱憤がたまり母と喧嘩になりました。その時、最初に何を言われて喧嘩になったのか。ハッキリ覚えていません。その喧嘩で母に言われた一言で、頭が真っ白になり記憶が飛んでしまいました。


 喧嘩の挙げ句ブチ切れた私は、初めて言えなかった本音を母にぶつけてしまいました。
「お母さんは、私に今まで一体何をしてきた?? お母さんが私にしてきたことは、“精神虐待”じゃないの!! 前にも、私の卒アルバムを捨てようとしたよね? 私、どれだけ落胆したか、像もつかないの? 子供の大切な記品を、“邪なもの、いらないもの”と平気で子供に言う、そのお母さんの配慮のなさには愕然とくる!!」
 泣きじゃくりながら、必死に訴えました。


 母は、大変驚いた顔をして数秒絶句していました。
「……、お母さん、いつそんなことしたの? 嘘ぉ?? 覚えていないよ……」
「ハア???」
 私の方が絶句です。「覚えていない??? あんなこと平気でしておいて?」
「お母さん、知らないよ。いつそんなことをアンタにしたの?」
私は、また精神が転落してゆくのをじていました……。
 結局、母がする仕打ちは……「その日の気分」でやっている、ということが明らかになったわけです。これはたまりませんでした。


 いや、たまりませんって言葉では表現できかねるほどの、決定的なダメージをまともに食らったわけです。私は、底「もう、まりんはダメだ……もう耐えられない」といました。


「死にたいなぁ……」瞬間的に、そういました。もう、いい。もう、ここまで我慢してこんなこと言われて、これ以上、私にどうしろっていうの。もう、いいじゃん。死ねばいい……自殺しよう。


 頭の中で、その言葉がぐるぐる廻り始めました。しばらくして、「ハッ」としました。「ダメ!私はこれでも法者の端くれだ。信を知っている者としてここで負けたら……」
懸命におかしな考えを打ち消そうと、もう一人の自分がで叫びます。けれど、もう一人の自分も譲りません。
「まりん、今までよくやったよ、けれどもうダメだよ。もういい。もうこれ以上……」
 の葛藤は延々と続きました。うつ病が再発です。それも、本当に危険な状態の……。自殺したい、自殺したい……。ダメ、それはダメ……私は法者……。


 寝ても覚めても、仕事をしていても、常にその葛藤が毎日続きました。題目もあがりません。うつ病患者の題目がしいのは前に書いた通りです。


 仕事には毎日行きました。職場では普通に振舞ってはいましたが、務をこなしながらも、ハッと気がつけば「死にたい」と、強く強くじ続けている自分が居て“ゾッ”としました。また、私は会合に行けなくなりました。


 鏡に映った自分を見て、問いかけました。
「私って、何だろう。何で、こんないをするんだろう」
 私は、明らかに絶望の淵に立っていました。
「ああ……今の私、カレシ君のお父さんと一緒だなぁ……」
 私はひとつの結論にたどり着きました。


 カレシ君のお父さんは2年前、精神病を突然発症しました。一家8人を一人で支えて働いて働いて、家庭不和にも悩み、労に労を重ねた結果の病気でした。私は、「なんとむごい」と同情しながらも、やっぱりどこか他人事に捉えていました。お父さんは昨年、自殺未遂までしています。「家族に、これ以上迷惑を掛けたくない」そのいからとっさにとった行動でした。


 私はそんな悲しい状況をカレシ君から聞きながら、やっぱり他人事にしていた節があります。第一、口には出しませんが大きく偏見をもっていました。


「精神病を患うひとは、頭のネジがどっか飛んだ人だからそうなる」
が弱いから、そんな病気になる」


 だから、あんまり関わりたくない。この病気の人は怖い、気持ち悪い。第一、薬で治らないし! ひそかにそうっていました。


 それが今は自分です。他でもない、この病気の人は怖い、気持ち悪いとっていた本人がそうなっている。その事実に愕然としました。


「お父さんはが弱くて病気になったんじゃなかったんだ。自分の環境に我慢して我慢して、我慢に我慢を重ねて、堕ちて行ったんだ……。私と同じ気持ちだったんだなぁ……。今、初めてわかったよ……」


「絶望の淵に追い込まれた人の気持ちは、みんなこうなのかなぁ……。みんな、死んじゃダメだって葛藤しながら、とっさに電車に飛び込んだり、ナイフで手首切ったり、気がついたらそんな行動をとるものなんだなぁ」


 精神のどん底にいる自分になりはじめて、カレシ君の父のしみを理解しました。
「辛いなぁ……辛いって言葉がまだ軽くえるほど、しいなぁ……」


 カレシ君の父の辛さを、本当に理解した私は、次に猛烈な怒りを覚えました。
「ここまで、実の娘を追い込む実の母って一体何なんだろう!」
憎しみの火焔が轟々(ごうごう)と音を立てて燃え盛りました。


 母のこと、もう一生許せない。許さなくていい。信じようとした私が甘かった。バカだった。家にいて母を信じようなんてわなくて、よかったんだ。家を出よう。スッキリ離れよう! 母なんてどうだっていいじゃん!!


 その後、私は母を憎みじる生命へと変わって行きました。自分では気がつかないうちに、どんどん目つきがおかしくなっていきました。(あとで部長から「まりんさんの表情が変わっていた」と指摘されました)


 もちろん、ずっと会合には出ていません。出るつもりもありませんでしたね。けれど、メールで会合日程は毎度降りてきます。一応目を通しますが、無視、無視。しかし、ある日、別に行きたくはないけど、なんとなく部の日に参加してしまったのでした。何で? 解りません。ふらっと、出たくもないのに出てしまいました。


「ああ! まりんさん、お久しぶりです! ご労様です!」
 部長以下、いつものメンバーが笑顔で迎えてくれました。その後、メンバーと会合で何を語ったのか、何を学んだのか、内容は全く覚えていません。右から左にメンバーの音を通過し、生命に響くものは一切ありませんでした。


「ケッ、なんであたしこんな所にいるんだろ!来る必要もなかったのに!」
そういながら会合は進み、終了。会場を後にし、私はメンバーと一緒に歩きながら帰宅していました。


 部長が私にそっと近寄り、小をかけてくださいました。
「まりんさん。体調大丈夫ですか?」
 部長が私の顔をのぞきこみます。
「まりんさん、何か悩みがあるんじゃないんですか?」
 私の足が止まりました。


「私、ずっと配してました。まりんさんのこと。それに、今日久々に顔を見て、やっぱり何か悩んでいるんじゃないかと……。また、あのことですか?」
 部長はゆっくりと語りかけてきました。
 私は堰(せき)を切ったように情があふれ出しました。
「ウン……しい……」


 私達はメンバーと離れ、二人だけで立ち話になりました。
「母が……母は、その日の気分で平気で私を打ちのめすことが明らかになったの。もう“辛い”を通りこして、ヤバイよ。病院に行こうかとうくらい、気が変になる」
 私は一部始終を話しました。


 部長は、どうしていいかわからない表情をしました。けれど、次に、力を込めるようにこう言ったのです。
「まりんさん、ずっと我慢していたんですね。辛かったですね」
 その言葉が……その一言が、私の生命の端から端まで貫きました。“ああ、そうなんだ。私、ずっと我慢していた”。その言葉が、底染みました。嬉しかった。


“今の私のしみを、から同してくれる人がいる!! たった一人だとしても、本当に解ってくれる人がいる!!”


 私、この一言で生きていけると瞬時にいました。部長の真が、光の矢のように五体を突き抜けました。なぜだか、わかりませんが、凄く安したのを今でも強く覚えています。


 今、一番私が欲しかったのものは、「現在の状況がどんなに悪くとも、今の自分を大丈夫だと認めてもらえる相手の」だったのだといます。


 部長は続けます。
「今日、どうしても、まりんさんに会いたいって題目を送っていました。そしたら、願い通り、まりんさんが部の日に来てくれて!! 本当に願いはかなうんだって、びっくりして、嬉しかったんですよ!!」


 私もビックリでした。ふらふらっと出るつもりもない会合に出てしまったのは。部長の題目に吸い寄せられていたから!ということが、わかったから。ああ、一三千って、ほんとーーーに凄すぎる。また、法は凄いといました。


「まりんさん、辛いですけど逃げちゃダメですよ。家を出ても、どこへ行こうとも、お母さんから離れられたとしても。結婚してまた同じような人と遭遇しますよ。今度、お母さんと同じようなお姑さんとあった時、まりんさんどうするんですか? もう一度、初めから、辛いいを繰り返しますよ。今、この時に乗り越えましょう! 私からも懸命な題目を送ります。必ず、今のしみの味がわかる日が来ます。お母さんに、から謝できる日が来ます。それまで、あきらめちゃ絶対にダメです! 闘いましょう!まりんさんなら出来ます!」


 部長の渾身の励ましで、私はまた立ち直りました。創価学会の強さは、これに尽きるとじましたね。闘志は取り戻しました。けれど、次には一体どうしてよいのやら。悶々とする日が続きます。


 題目は大分落ち着いてあげられるようになってきましたので、御本尊に題目を唱えながら必死で考えました。部長の言葉を。


「今のしみの味が解る……。母にから謝できる……。どうしたら……どうしたら……そして、それはいつなんだろう」


 直ぐには結果は出ません。けれど、部長の励ましは私の生命にしっかりと刻まれていました。
「絶対に、ここからは逃げない!私は部長に約束した! から理解してくれる人の真を裏切ることだけは、断じてしない!」
 題目をあげながら、必死の手探りが続きました。


 何週間過ぎたでしょうか。状況は変わりませんが「逃げない」――それだけは胸に刻んで毎日を送りました。どうしたら、このしみに味を見出せるのか。どうしたら、あの母にから謝できるのか。どうしたら、私は幸福になれるのか。


 懸命にもがき、題目をあげ、毎日を過ごしました。
法対話……?」
 ある日ふと、そんな言葉が口をついて出ました。


考にはまず、理論ありき」が常に信条のはずの、“理論派まりん”が、考えてモノを言うという回路を飛ばして、瞬時にいついたことです。いつもの私にすれば、大変、珍しいことでした。生命自体が、私の第九識が、私の殻(から)を突き破ったかのように、言葉だけが先に口から出てきました。


「あれっ?」
 後から、なんでそんなことを口走ったのか。検証しました。
「大願に立て」
 直ぐ、この言葉が頭に浮かびました。『大白蓮華』に連載されている、池田先生開目抄講義にも太字で書かれていた言葉。広宣流布という大目的を指した言葉。大聖人のお言葉であり、池田先生が繰り返しご指導くださる言葉。


 私は信の中で教学が一番得なのですが(いやいや、教学しか取り得がないかも知れないが)、もしかすると、私の生命自体が私の頭以上に、教学で学んだ事を覚えているのではないか??


 鳥の卵は最初は黄身と白身しかない。けれども液体なのに、温められるとくちばしが出てきて勝手に殻を割るように、私の中から、自分のいもよらない事が起きたりする、それじゃないのかな?


 私はとっさに新池御書の一節をい出していました。
「此の経の信と申すは少しも私なく経文の如くに人の言を用ひず法華一部に背く事無ければに成り候ぞ、に成り候事は別の様には候はず、南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば天然と三十二相八十種好を備うるなり、如我等無異と申して釈尊程のにやすやすと成り候なり、譬えば鳥の卵は始めは水なり其の水の中より誰か・なすとも・なけれども嘴(くちばし)よ目よと厳(かざ)り出来て虚空にかけるが如し、我等も無明の卵にして・あさましき身なれども南無妙法蓮華経の母にあたためられ、まいらせて三十二相の嘴出でて八十種好の鎧毛そろひて実相真如の虚空にかけるべし」(1443頁)


 ……大願に立て、それが法の願いであり、大願に立ったとき、必ずになれる。何度も何度も学んできた。今こそ、それを実践するときじゃないか。しいときは人間誰しも自分のことしか考えない。けれど、それを踏み越えて人のために行動するとき、自分の幸福の道も共に開けると。私はそれを何度も何度も会合で、教学で学んできた。


「これだ!」私は、目が覚めるいをしました。行動だわ、行動!! 私はが軽くなりました。自分の事は確かに滅茶茶でグチャグチャだけど、そればっかりに目を向けるばかりじゃなく、友人にも当たってみよう。


 早速、一人の友人にメールをしてみる。最近の文明の利器は便利ですよね。人の都合を聞かなくとも、簡単な内容なら気軽に文字会話が出来てしまうのですから。


 会って話すことができればいいし、直ぐに会うのは無理でも、自分から何かアクションを起こしてみよう。私の気分転換も兼ねて。そうって、「最近どう?」的な挨拶を送信しました。友人から間もなく返信が届きました。私はわくわくしてメールを読みました……が、しかし。「うわっ。なんか機嫌わるっ!! あの人どうしたんだろう(汗)」。友人は、いつになくイラついたような文章を送信してきました。「今、がムシャクシャしてます!」と言いたげな、投げやりな文面。ネエネエ、いきなり、それはないんでないの?? 私も今大変なんだよ。せめて、明るく振る舞ってこちらから送信したのにさぁ。
 ……と、ちょっと落ち込んでぶつぶつ考えましたが……。「もしかして……!」私はいなおします。
情を全面的に出すって事は何かしら“理解して欲しい”との欲求の表れと捉えられる、よね?」


 友人も理由は何か解らないけど、何かに悩んでいる。私も今、凄く自分のことで悩んでいる。辛くても、あきらめない、そのスピリッツを今の私だからこそ、相手に発信できないだろうか?


 私は、直ぐに返信を打ちました。
「私の事、聞いてくれる?今、こんなことで悩んでいるのよ」
これで何人目かな。私の全てを語るのは……そういながらいを綴りました。


 返信がまた、届きます。
「それはまた、大変だね。けど、ったことを言わせてもらうね。きついこと言うよ。親はずっとそれできたんだから、ずっと変わらないとう。このまま家にいれば、まりんちゃんまた同じこと言われるって。そんな親からは離れたほうがいいよ。もういい歳なんだし」
 ……なるほど。そうだよね、これは世間一般ではモットモな見っていうんだろうね。それしか解決方法って、普通はないよね。


 ウーン!! 私の決を、友人にどう言えば、わかってもらえるのかしら。法的な、「から逃げない」という精神を。「嫌なものから離れろ、長いものに巻かれろ」っていう精神風土の日本で、私の得た確信と信を、法の根幹を、どう語ったら伝わるのかしら!!


 私は考えながら、更にメールをします。
「私がどうして家をでないか。像はつく? それなりに蓄えもあるのに、なぜ虐待の家に居ることを選択するか。自分の母親を許せないまま家を出たなら、一生母を恨んで生きていくことは目に見えているから。自分の肉親を許せない自分が、ましてや他人をどこまで信じて許せる? 無理に決まってるよ。だから今、猛烈な辛さと闘ってる! 究極のところ、『人を許す』『人を信じる』というのが、何より一番しい。でも、そこを乗り越えないうちは、たとえ誰と何処にいても、結局は『孤独』やよ。人間は、人との関わりの中でしか暮らしてゆけないのだから! ……だから、解決の糸口が見つかるまでは、どうしても逃げられない!」


 また、返信が友から届きます。
「んーー。まあ、まりんちゃんがそこまで言うなら一緒に住んでもいいじゃん。だけど、それなら、嫌な事言われても、死にたいとか言うべきではないとうよ」
「…………」
 私は携帯を片手に持ったまま、しばらく固まっていました。理論派まりんの友人たち……つまりまりんの眷属たちは、まりんと同じ、理論派揃い。


 このメールで、正直、“これこそごもっともな見”だと、反論できなくなりました。
次の瞬間、言いわけが私の中に巻き起こります。
「そりゃ、そうかも知れないよ、けれども、あなたがもし話を聞くだけでなく、本当に私の立場を体験するのなら、絶対にそんな正論を振りかざせなくなるよ! 私だって、簡単に死にたいなんて考えたりしたんじゃない。しんでしんで、自分を責めて責めた究極の状態に置かれたのよ! そんな、簡単に言い切れる程の精神論ではないんだから……!」


 ……自分を正当化させる言い分が、私のに沸きあがります。悔し紛れに、何か言い返そうと気を取り直して文字ボタンを押そうとしました。……が。直ぐに指が止まりました。やっぱり、引っかかります。友人の言葉が……


「嫌な事を言われても、死にたいとか言うべきではないとうよ」


 友人の言葉は間違ってはいません。母にひどい仕打ちをされて、「死にたい」とか言う私のままじゃ、今後何も進展は望めない。それは確かなことでした。何かをどうしても変えないといけないのです。


 やっぱり友人の理論には対抗できないと、唇を噛みました。悔しくて何か言い返したい気持ちは、たくさんあるけれど、返信メールは打てませんでした。


「嫌な事を言われても、死にたいとか言うべきではない……」
「嫌な事を言われても、死にたいとか言うべきではない……」


 延々と頭の中で繰り返す友人の言葉。完全に、私のに刺さっていました。


「母を、どうやって許せばいいのかな……どうすれば、謝できるのかな……」


 仕事中でも、友人のあのフレーズが離れません。なんだかとっても悔しくて、辛くて、それだけでが一杯でした。


 一分一秒も間隔なく、容赦なく友人の言葉が私の頭を駆け巡ります。その日、仕事をしながらから考え続けて、とうとう昼休みになりました。ご飯を食べながらも、頭ではあの言葉が私を支配し続けていました。


「そもそも、死にたいと私がってしまうまで追い詰める母って、一体どういう存在なんだろう……」


 私は、どんどん考えていました。
「どうしても、あそこまで実の娘を追い詰めなくてはならない理由でもあるんだろうか?」
「母は何か、れっきとした理由があっての行動?」
「私、お陰でエライいをさせられたよなぁ……もう少しで自殺するところだった!」
「結局自殺い留まったけど、確かに精神病は患ってしまったよな……」
「あんなにしい病気だとはわなかったし、ましてや自分は絶対にかからない、私は健常者だといこんでいたから、何かの拍子で誰でもなるって病気とはまったくわなかったなぁ……あれは外だったし、かなりショックだったなぁ」
「もし……無理にでも私の精神を突き落とすために執深くやっていたとしたら?」
「オラオラァ! これでもか! これでもか!! まりんよ、これでもまだ足りないか! 早く早くどん底まで落ちてしまえ!……なんてさぁ」
「まさか母の使命がそれだったりするなんてことあったりしてねえ?」
ハッ!!! 私はわず、口を開けて叫びました。
「ああーーーーーーーーッ!!!」
 私の目の前が一瞬、真っ白になりました。
『母の、使命?!』


 ブツブツ考え続けた挙げ句の果てに、何とはなしに浮かんだその言葉が私の生命全体を駆け抜けました!


 私はわず椅子からガバッ! と立ち上がりました。今までの、母から受けたの一つ一つが、先ほどいついた「使命」という言葉でつながっていきます。しかった場面が、頭の中で映像で一つ一つ鮮明に蘇ります。


 私はついさっきまで、母に辛いいをただ単に「させられた」とっていました。
でも! 実はそうじゃなかったとしたら……。もしも、どうしても必要があって、母が「あえて」私にしてきた事だとすれば……


 母自身は、恐らく何にも考えてしているわけじゃないだろうけど、私にとってはどうしてもひどい仕打ちを経験せざるを得ない理由が、もし「ある」とすれば……


「ああ、そういうことだったんだな……」


 私の中で、今までの味全てが、つながりました。今まで私は何度も母の仕打ちに耐えて来た。けれど、最後はとうとう精神の限界値を振切ってしまい、自殺を考えた。


 そしてそこで、初めて「精神病」というものに向き合った。ずっとずっと軽蔑し、見下してきた「生命の病」に!! 他人事では決してなく、自分、いや誰もがいつなるかも知れないって事に。


 もし、母に極限状態まで追い込まれなければ……。自分から母を避け、家を出ていたなら……。私はいつまでも、この病気を見下し、馬鹿にし続けたに違いない。


 人を自分の了見で見下げ、馬鹿にするという、傲慢な自分の愚かさを、母が嫌われ役を買って出て教えてくれたとしたら!! 悩む人と同じ立場になり初めて、自分のいあがる汚さに気がつく。絶望の淵に立つ人のしみがどれほどのものか。私はい知らされた。


 やっと、初めて母に謝が出来る。傲慢な母だけれど、その傲慢さが私の生命を写しだしてくれる。もしも、嫌われ役が母じゃなければ、絶対にこの私の悟りは無理だ。もし、友人が母のような仕打ちをすれば、私は必然的に、友人を避け、縁を切るだろう。母だから、一番切っても切れない肉親だからこそ、私は自分と向き合い、悟ることができたのだ。


 母は、私をちゃんと愛してくれているのではないか。優しい人間へと成長させるため、私をここまで導いてくれたのではないか。そこまで理解した私の目からは、涙が溢れて止まりませんでした。


「お母さん、ごめんね……。嫌な役を負わせてごめんね……。お母さん、お母さん、ずっと気がつかなくてごめんね……」


 職場の誰もいない場所まで走っていった私は、をひそめて、泣きじゃくりました。
「ずっと恨んでごめんなさい。ずっと解ってあげられなくてごめんなさい」
そのいが私からとめどなく溢れ続けました。


 私が母に対して抱いていたいが変化その日から、母の、あれほどひどかった言動、仕打ちがピタッとなくなったのでした。


 私は母に直接何も言ってはいません。「ごめんなさい」「ありがとう」との一言さえ言ってはいないのです。


 けれど嘘のように、以後はあれだけ悩まされ続けたことが、一切なくなったのです。これも一三千!! 法の凄さ、醍醐味だと驚嘆しました。


 以後母は別人のように、優しくなりました。まさに、御書に仰せの通りです。「地獄しみ ぱつと消へて」――。


 全ては……、全ての環境は自分の生命境涯の行動から発せられ、そのまま自分へと還ってくる。依正不ニの原理が、まさに自分の体験そのものであるということ……。これが、私のこの闘いの最終結論となりました。


 そして嫌いだった母が、誰よりも自慢の母となりました。更に私はすごい功徳を同時に得ることになりました。


「精神病を蔑(さげす)む側の理」と「精神病を患(わずら)う側の理」、どちらも同時に理解できるようになったと共に、その発症の過程、傾向、そして完治のために必要なことを一通り知ることになりました。


 全て自分が体験してきたことです。全部理解できます。


 私は、「の病」に悩む人々を救うという大変大きな使命を持ち、この世に出現した地涌菩薩ということを紛れもなく自覚したわけです。まさに、新池御書の一節にある、「釈尊程のにやすやすと成り候なり」です。やすやすと簡単に、釈尊ほどのになる手段を得ました。


 それに、今まで学んできた御書と、池田先生のご指導の深い味を知ることができました。この大きな体験したことで、どれほどの重要なことを知ることができたか……。これ以後は、其の事について検証してゆきましょう。


【「検証:日蓮仏法の理論」に続く】(※テキスト制限量をオーバーしているため、別ページとした)