師亡き後で変節

「法」にのっとり、「法」に従うことを嫌がるわがままな修行者は、いつの世にもいた。釈尊の時代も同じであった。
 釈尊が入滅した時である。スバッタという修行者は、その死を聞いて喜び、他の嘆き悲しむ弟子達にこう言ったという。
「やめなさい、友よ。悲しむな。嘆くな。われらはかの偉大な修行者からうまく解放された。〈このことはしてもよい。このことはしてはならない〉といって、われわれは悩まされていたが、今これからは、われわれは何でもやりたいことをしよう。またやりたくないことをしないようにしよう」(『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元訳、岩波文庫)と。
 まことに人のは恐ろしい。この時、彼のあまりの暴言は人々を不快にし、経典に記録された。そして現代にまで伝えられ、当時の人間模様を生々しく証言している。
「正法」が永遠であれば、正法に敵対した「悪の言」も永久に伝えられる。そして時が経てば経つほど、その醜い根を後世の人々にさらし、正義の人が、正義ゆえに耐えねばならなかったの大きさを物語る確たる「証拠」となっていくのである。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 スバッタは、「須跋陀」か?」


 師亡き後、必ず変節する輩が出てくる。五老僧の如し。戸田先生が逝去された時も、次期会長の座を狙っていた人物がいた。広布第二章の途中でいなくなったけど(笑)。会長勇退の時も、先生を引っ込めようと躍起になった幹部がいたのだ。まして、創価学会がこれほど大きくなった今、虎視眈々とチャンスを窺っているような人物も、学会本部にいることだろう。“その時”が来れば、いつでも前を挙げて糾弾してやるよ(ニヤリ)。


 先日、「53日へ 私の希望」と題した高柳婦人部長の寄稿が掲載された。

 女には一途な純粋さがあります。それに比べ、典でも、御書を拝しても、男は、時に野や権力欲に結びつきやすい。師弟を引き裂こうとするがつけいりがちです。
聖教新聞 2006-04-13付】


 読んだ瞬間、「高柳、てめえ、なめたこと書いてんじゃねえぞ、コラ! “退転するのは女が先”と、相場は決まってるんだよ!」とったが(笑)、そうではない。ここに、先生の呼吸があるのだ。


 戸田先生の『人間革命』にこうある。

 嫉妬は女ばかりだとったら大間違いだ。男にも嫉妬がある。女の嫉妬はせいぜい家庭を壊すくらいだが、男の嫉妬は世の中を誤らせることが多い。嫉妬という字に、男偏があってもいいんだ。


 つまり、「男疾 男石」という文字になろうか(笑)。


 嫉妬が人を狂わせる。シェイクスピアは「緑の目をした怪物」といい、イギリスの詩人ドライデンは「魂の黄疸(おうだん)」と表現した。


 将来、学会が分裂するような事態になったら、何をどのように判断すればいいのか? さしたる情報もない中で、末端にいる我々は正しい判断をし得るのか? あの、昭和54年の会長勇退の時のように、またしても我々は弱い立場に甘んじて、沈黙を保つのか?


 悪を見抜くには、どうすればよいのか? 徹底した教学の研鑚と、スピーチを学び抜くしかない。大聖人と先生の“”を知ること以外に、その方途はないのだ。更に、広布最前線で必死の闘争を繰り広げる中でしか培われない“覚”、“嗅覚”を磨き抜くことだ。そうすれば、いかなる立場であろうとも、必ず正邪を峻別できる。


「幹部だから」というだけで尊敬してしまうような面々は、五老僧の後についてゆく結果となろう。


 今、我々に課せられているのは、“一人の弟子”として、どう生きるかである。社会において、組織において、“俺は、池田門下生だぞ!”という叫びが全身に脈打っているかどうかである。

『新・人間革命』


 今日付の『新・人間革命』は読んだ? いやあ、呼吸が合ってきてますなあ。こういう痺れるタイミングが、年に5〜6回ほどある。昔はもっと多かったのだが(笑)。

 座談会は、まさに民衆相互の、魂の触発の場といってよい。それだけに広宣流布の最も重要な主戦場なのである。
 伸一は、その座談会の充実に最大の力を注ごうと、を砕き続けた。
 そして、「座談会について」と題して、婦人部幹部、青年部幹部と語り合い、その語らいが聖教新聞の新年号から3回にわたって連載されたのである。
 このなかで伸一は、信仰の深化は生命対生命の交流、すなわち「感応の妙」によってなされ、その場こそが座談会であることを強調していた。
 また、学会活動を川の流れに例え、友好活動や個人指導が“支流”であるとするなら、座談会は“大河”であり、すべては、ここに合流していかなくてはならないと訴えている。


【『新・人間革命』「飛躍」4/聖教新聞 2006-04-14付】