学会指導と私


 私は幼い頃から、かなりの量の読書にいそしんできた。家ではに1冊しか買ってもらえなかったので、図書室の本を片っ端から読んだ。5年生の時、ゲロという仇の図書委員を脅し、貸し出し可能冊数を越えて10冊の本を借りたこともある。直後にオールドミスのオバサン先生から呼び出しをくらい、反省文を書かせられた。図書室の本の3分の2には、私の前が記された図書カードが残っているはずだ。


 そんな小学生だったが、小説『人間革命』は何度かチャレンジしたものの、読了できなかった。後から刊行された少年版も読み終えた記憶がない。専ら私が愛読していたのは、みなもと太郎の『教学博士』だった(笑)。多分、軽く100回以上は読んでいる。十界論も三諦論も『教学博士』で学んだ。中学の授で、『教学博士』から学んだ知識を披露して、随分と褒められたこともある。


 子供に本を読ませるのは簡単である。親が読めばいいのだ。幼児であっても、親が本を読んでいると、物凄い気になるものだ。私の元には、母が本を読んでいる傍らで、幼い私が覗き込んでいる写真がある。


 学校へ行っていた時分はスポーツに明け暮れたが、常に本は読んでいた。中学3年で初めて上京し、信濃町の出版センターに行った際、母から「何か欲しいものはある?」と尋ねられ、「『若き日の日記』」と答えた。ということは、学会出版物も読んでいたようだ。


 私の人生を変えたのは、小説『人間革命』だった。最初に読んだのは高校3年の時である。3ヶぐらいで一気に10巻を読了した。それこそ、毎日のようにバレー部の部室で皆に講義をし、友人に教えまくった(笑)。私は動を自分の胸に秘めていることができない質(たち)なのだ。もうね、「凄い!」「凄い!」の連発だよ。読書文を学校に提出しようとしたが、母から止められた。


 それからというもの、家にある本棚二つの学会出版物を2年ほどで読み終えた。『折伏教典』を読んだ時は、直ぐに試してみた。アルバイト先の社長のお母さんが天理教の教会の会長をしていた。仕事をしながら、30分ほど破折しまくった。向こうは何一つ反論ができなかった。私は世界を制したような錯覚に陥った(笑)。


 23歳までに、学会指導を記したノートは13冊になっていた。同時に御書全編も二度、読破した。


 30歳になるまで、聖教新聞に掲載された指導は3回繰り返して読んだ。最初は赤で線を引き、次に青、最後は黒と変化をつけた。


 先生の言葉に打ちのめされるほどの動を覚えながら、私は青春時代を生きた。そして、貪るように求め続けた。


 宗門問題直後、小説『人間革命』が再び連載されることになった瞬間のあの歓喜! そして、古い指導を読むたびに学会の歴史が、私の骨肉に刻み込まれた。「先生の魂に触れることができる!」――これほどの動が他にあろうか。私にとっては、先生の言葉こそ無上の宝なのだ。


 私を形成している9割は、先生の言葉と、先輩から受けてきた訓練である。今の私があるのは先生のおかげだ。先生なくして、我が人生はあり得ない。


 残ながら、私よりも先生の指導を読んでいる学会員を見たことがない。古いものも含めて、私が読んでないのはトインビー以外の対談集だけである。


 だからこそ、若いメンバーには私以上に読み抜いて欲しいし、実践し抜いてもらいたい。


 というわけで、再び「創価データベース」のメンバーを募集! ふるってご参加願いたい。

安全なところで怪我をする

徒然草」の第109段には、有な“木登り”の話がある。
 木登りの手が、木から降りてくる人に対して、高い所にいる時でなく、地上に近づいてから、注を促した。
「私が『この程度の高さまで降りたからには、飛び降りることもできるだろう。それなのに、なぜそんなことを言うのか』と申すと、(木登りの手は)『そこが肝なのです。目が回るような高さで、枝も折れそうな間は、本人が気をつけているので何も申しませんでした。けがというものは、安全な所まで来てするものなのです』と言った」
 万事、最後の総仕上げが大事である。
「もう、大丈夫だ」とったところで、わぬ事故を起こしたり、失敗してしまう場合がある。
 広布の戦いであれ、仕事であれ、きちんと決着をつけ、有終の美を飾ることだ。


徒然草師の指導を語る 2006-08-11 群馬多宝研修道場


 特に高齢者は注して頂きたい。先日、私のブロックにいるオバアチャンが、エレベーター内で鏡を見ようと振り向いた途端、大腿骨が折れた。信じい話だが、「高齢者にはよくあること」と医師から告げられたそうだ。


 話は変わるが、事故を起こす人には傾向があるものだ。車の運転であれば、ウインカーを出すのが遅い、駐車している車の傍や横断歩道の手前で減速しない、バックミラー・サイドミラーの確認を怠る、等々。また、スリッパなどで、やたらと足音を立てる人、更には、店や会社などのドアを通り抜ける時、後ろを確認しない人、携帯や定期券など必要な物を忘れる人も同様である。


 共通するのは、「他者への像力」が欠如していること。「こんな運転をされたら、迷惑だろうな」「足音がうるさいと、嫌がられるだろうな」という程度の気配りもできない人々だ。


 自分の世界だけで生きている人は、例外なく自我が肥大しており、やや人格障害の気(け)がある。


 会員の人生を引き受ける学会組織にあって、「同じ失敗を繰り返す」人物は正役職に登用すべきでない。


 戦いにおいて有終の美を飾るためには、最後の最後まで勢いを出し続けることだ。人生もまた闘争である。ならば、60代、70代、80代と輝きを増してゆかねば敗北となる。ここがしい。