私が懺悔する時


 一度だけ、を出しての底から懺悔(ざんげ)したことがある。それは、御本尊の前ではなかった。ゆっくりと上がっていった富士急ハイランドのレッドタワーがピタリと止まった瞬間だった(笑)。直ぐ目の前に富士山が聳(そび)え立っていた。私は、かみさんの隣で「御本尊様、○○(かみさんの前)を大事にします。乱暴な言葉遣いも改めます!」とに出し、題目を唱えた(笑)。人間というのは、恐ろしい目に遭わないと懺悔できないことが、よくわかった。

 小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬがれず、大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ(930頁)

 此の人人は改悔(かいげ)は有りと見へて候へども強盛の懺悔のなかりけるか(1523頁)


 それにしても、恐怖をじる対象が、男女でこれほど違うのは、どうしてなんだろう? 我が細君は、頭のネジが数本足りないのではないかとわれるほど、絶叫マシンを楽しんでいた。この時、私は生まれて初めてジェットコースターに乗った。もちろん、「フジヤマ」なんかではない。短いコースの代物だ。それでも十分、“命の危険”をじた。船が揺れるヤツも駄目だ。操作している人物を本気で殴りに行こうとったほどである。遊園地に私の居場所はない。


 色々と考えてみたのだが、やはり「自分でコントロールできない」ところに恐怖の原因があるとう。一方、女はお化け屋敷が手だ。私なんぞは、幽霊が出てきたら「オウ、時給はいくらなんだ?」と質問するほど余裕がある(笑)。お化け屋敷の場合、万が一絶体絶命になったら、火を放つことも可能だ。ジェットコースターは、そうもいかない。


「死の恐怖」が人のを正す。秋田のナマハゲも、同様の原理だろう。「死ぬかも知れない」とった瞬間、欲望なんぞは吹っ飛んで、どこかへ行ってしまう。


“死”を識せずして、“生”を十全に謳歌することは出来ない。「命を懸ける」とは「死を自覚する」ことであろう。

 破壊は一瞬
 建設は死闘
 惰は暗 希望は明
 後退は死 前進は生


【「建設の譜」 1969-01-01】