「絶対」や「永遠」は定義できない

 この問題を考える場合に一番重要なことは、宗教的真理を含む真理一般をどのように考えるかという問題です。例えば、「大聖人の法は絶対に正しい、永遠の真理である」などと言ったりしますが、哲学の議論では「絶対に」や「永遠の」という言葉は、定義できない言葉であって、話者のある種の情を示すことはできても、何かの事実に関して有味な情報を与える言葉ではないと考えられています。また「正しい」や「真理である」という言葉も、その言葉を使う人々の間に共通の正義観、真理観がなければ、有効な議論をすることができないということも明らかであります。


【「宗教における原理主義と改革主義 牧口常三郎の挑戦」宮田幸一/『創価教育研究 第2号』】

大石寺の「寺社奉行」的構造 江戸期にみる創価学会破門の源流 3

 菅田正昭(すがた・まさあき=宗教史家・離島文化研究家)

 流人史を調べていくと、しばしば「無宿」とか「非人(ひにん)」というコトバに出会う。だが、ここでは、世間からのけものにされた存在だから、犯罪に走りやすいのだ、とはわないでほしい。農民や漁民や町人が犯罪者になったとき、あるいは、犯罪者に仕立てられたとき、結果的に無宿とか非人にされることが多いのだ。とくに、宗教犯の場合、そういう傾向が強かった。
 江戸時代、徳川幕府は、人民はかならずどこかの寺に所属しなければならないという寺請制度を創設して人民支配を実行した。寺院はその先兵として戸籍を作成して人民を管理した。その戸籍簿がいわゆる宗旨人別帳である。この人別帳から除籍された人を「非人」とか「無宿」というのである。
 ここで、〈異流義〉問題で信徒が逮捕された場合を考えてみよう。すると、幕府当局はその信徒が所属している寺院や、主(なぬし)などの村役たちに圧力をかける。その信徒を人別帳から外さないと、隣保組織の五人組や、その家族たちも同罪にするぞと恫喝(どうかつ)するわけである。あるいは、幕府当局から何も言われなくても、多くの寺院はそういう信徒を人別帳から除してしまうのである。
 こうして異端の信徒は「無宿」とか「非人」にされてしまうのである。こうなると、封建体制下での最低限の人権も喪失してしまうのだ。おそらく、八丈島へ流された「じん」も、こうして「無宿」にされたのであろう。
 これを見て、何かじないであろうか。そうなのである。今日の、大石寺による信徒資格喪失の通告と、人別帳からの除とは、驚くほど、その論理構造が似ているのである。もちろん、今日では、憲法で信教の自由が保障されているし、たとえ寺院から信徒資格を剥奪(はくだつ)されても、戸籍から自分の前が消されるわけでもない。しかし、構造的に分析すれば、これは同質の所といわざるをえない。
 すなわち、これは幕藩体制下における、一種の「国家教」体制の中での、「寺請制度」による発なのである。そして、それはたえず〈異流義〉を自己の内に生みだし、その〈異流義〉を幕府の手によって宗教弾圧してもらおうと、寺社奉行へ事実上、信徒を売り渡してきた大石寺法門の論理構造を背景として成立しているといえよう。


【『大石寺の「罪と罰」』玉井禮一郎〈たまい・れいいちろう〉(たまいらぼ出版、1997年)所収】


大石寺の「罪と罰」