一歩前進


 たくさんのお見舞いメールをお寄せいただいた。より謝申し上げる。


 今、一番下の妹から電話があり、「先ほど父の目が開いた」と。目の焦点は合っているものの、まだ識があるとは言いいようだ。多分、視覚野が機能し始めたのだろう。こいつあ、ビッグニュースだ。本当に嬉しい。皆の題目のおかげ。


「目は、むき出しになった脳である」という指摘もある。五官の中でも情報量が最も多く、他の四つの器官が物質を介在するのに対して、目は同時並列で一瞬にして情報を処理する。父の脳にもたくさんの刺激を及ぼすことだろう。


 脳幹は、脳と身体との間にあり、生存本能を支えている場所である。大脳は人間の考を司っており、小脳が運動機能を調整している。情動を支えているのは大脳辺縁系といわれている。そして、意識と生命を維持しているのが脳幹である。


 そこは、煩悩の嵐が渦巻く世界であろう。脳幹こそは、生と死を分かつ崖っ淵といってよい。欲望よりももっと根源的な本能がメラメラと燃え盛り、十界の原動力となっているのだろう。父は、そこで上半身を此岸にしがみつかせ、下半身を彼岸にブラブラさせているような状態であると察する。


 脳幹は医師の手をも拒絶する。そして、我々家族の手も届かない。生死の淵で辛うじてつなぎ止めているのは、まさに「祈り」だけである。私がつらつら書いている悟りは、まだまだ考の次元に過ぎない。私自身が脳幹で祈る必要がある。考や情よりも奥深くに存在するであろう“祈る本能”を引きずり出して、御本尊に体当たりするのみだ。

 なづき(頭脳)をわりみ(身)をせめて・いのりてみ候はん、たださきのいのりとをぼしめせ(908頁)

「死の幻影」1


 小林勝(こばやし・まさる)
【(1927-46ママ)〈※没年は71年の誤り〉
 作家。鮮に生まれる。鮮の中学から陸軍士官学校へすすみ、敗戦後、旧制都立高校を経て、早大露文科を中退。1952鮮戦争反対集会で逮描され、あしかけ8年の裁判ののち敗訴、半年間の刑務所生活を送った。そのとき獄中で書いた戯曲「檻」は新劇戯曲賞を受けた。おもな著書には『フォード・一九二七年』『断層地帯』『檻の中の記録』『強制招待旅行』などがある。死後『鮮明治五十二年』が刊行された】


《『「生死一大事血脈抄」の池田会長講義』(1977年4聖教新聞に掲載された講義/後日、小冊子に)で引用された作品。小冊子42ページ》

 310の6時15分、私は観察室のベッドの中で眼覚めた。観察室のベッドは白いカーテンをぐるっとひくと、白い壁の狭い個室となる。その仮の個室の中で私の頭はたいへんすっきりしていた。さっそくノートを開いて、私は書いた。
「7時には起きなくてはならない。だが、こうやって、イヤホンでラジオを聞いていると、のんびりして、あたたかくて、気分がいい。外は曇りでだいぶ寒いようだ。もう、何もたべたり飲んだりしてはならない。昨夜は、睡眠薬を2粒のんで、これでいったい効くのか、少しも変りがない、などとっているうちに、一切不明。そして限が覚めてみると、このだった。
 脈搏は60。体温は、5度9分。」
 ここで術前の記録は切れているのだ。記録が再び始まるのは、手術日の10日をいれて4日め、313日からである。この4日間、私はついに一字も記録することができなかった。私は昏睡からよみがえり、すぐまた支離滅裂の境地にさまよいこんでいき、またよみがえってうなり、そしてまた混乱の渦へのめりこむという状態をまる4日にわたってつづけた。この4日間の記録は全く残なことにノートに書くことが不可能だったから、つまりどこにもないのである。それはいま、私の頭の中にあるだけなのだ。いま、それをできうる限りたどりながら、事態が、私の懸命な準備とどのように一致したか、あるいはどのようにちがっていたか、あるいはどのように予外のものが現れたか、検討してみることにしたい。
 10日の、7時前につきそいのおばさんがやってきた。おばさんはもう15年もこの仕事に従事してきたそうで、口数は多くなく、この道の熟練者である。私は、おばさんに教えられながら下帯をつけたきりの裸体の上へゆかたを着て、処置室へ行った。そこに患者運搬用のストレッチャーがあって、その上に私は横になった。すぐ予備麻酔がうたれ、気分がのびやかになり、うっとりしてくる。おばさんが毛布のすそをまくりあげて、熱い湯でしぼったタオルで足くび全体をあたためつづける。これは血管を膨張させて、そこへ輸血の針をさしこむのが容易なようにするのである。しだいに、時間の観はぼんやりとなっていった。眼をガーゼでおおわれていて、うっとりと眼を閉じているだけである。
 それから看護婦とおばさんによって、私をのせたストレッチャーはごろごろと動きだす。長い長い廊下を動いている。これから全身麻酔をかけられるが、その最後がどんなぐあいになるものか、よくよく見きわめようと、私は考えている。は平静である。
 手術室へ入った。床が木から固いタイルに変ったことがわかった。それから、手術台に移される。医師も看護婦もサンダルで動きまわっていて、そのかわいた固い音が響いている。カメラマン氏は手術の最初からうつすのだと言っていたが、来ているのやらいないのやらわからない。そろそろ始めますかな、という若々しいが聞える。誰のだかわからない。不にやわらかな酸素マスクのようなものがおしあてられ鼻と口をすっぽりとおおった。
 ――いまは酸素が出ています、と誰かが言う、頭の中でゆっくり数をかぞえて下さい。
 いち、に、さん、し、……いまか、いまか、と私はう、ほんとにこれはまだ酸素らしいな、ずいぶん時間をかけるものだな、とったその時、突然、ばっと何もなくなった。私がいなくなった。そんなぐあいだった。
 私は二度これを経験した。二度めのときは、もっと注深く、その途切れるところに気をつけていたのだが、突然、ばたっと消えて、それでもう何もかも一切がなくなるのである。この、何もなくなるじ、その瞬間は全く鮮やかな印象で、全部なくなってしまうあのじは、二度ともそうだったが、まことにあっけらかんとしていて、すがすがしくさえある。
 それから手術が約4時間時間をかけて進行し、私の背中は肩胛骨によって切り裂かれおしひろげられ、肋骨(ろっこつ)がはずされ(と言っても一端だけ)そして上葉と中葉が摘出された。もちろん私の知らぬ間である。それから、肋膜の癒着が少しずつメスによってはがされていったのだが、私の場合癒着はひどいものだったらしく、出血がひどくなり、さすがのS博士も全部はがすことをあきらめざるを得なかったとあとで聞かされた。
 もともと肺臓はビニールの袋のような肋膜に包まれているのだが、残された肺は肋膜の一種の袋におさめられ、袋に穴があいていると、気胸を起こす(つまり、袋からどんどん空気がもれて、肋骨の内側をおおっている膜と肺を包んでいる膜との間にたまっていくと、肺はその圧迫を受けてちぢんでいって、呼吸困になるのだ)ので、空気もれがないかどうか、切り開いた胸腔の中へ液体をそそぎこんで、その中へ沈めてしらべるのである。つまり、パンクした自転車のチューブへ空気をいれて、水の中へつっこんで、空気の泡がプクプク出てくるのをしらべるのと同じことなのだ。穴がないことがたしかめられると、液体を吸いあげて、処置をほどこしてから、あとは、縫い合わせるという、まあだいたいこういった手順でことはおこなわれるらしい。とにかく気管支を切り、大小無数の血管の網を切りながらおこなうのであるから、その技術たるや、なみたいていのものではないにきまっている。
 こうして私は皮も肉も骨も、そして胸の中までも切られて、縫い合わされたのであるが、昔は刀でこれくらい切られると人は確実に死んだのである。つまり昔は死んだということは、手ちがいがあればいまでも死ぬ可能があるという、そういう状態にまでもっていって、しかもなお、死の手へ渡さずに確実に生命を確保する技術なのだ、ということである。私はそのことをきもに銘じておきたい。つまり、死へのぎりぎりのところまで人間をもっていっても、確実にそこから人間をとりもどす技術と確信を今日の肺外科医は持っているのであって、したがって、肺の手術は盲腸なみ、などと安易に考えてはならないということなのである。それは同じ手術という言葉はつかっても、全くちがうものだというふうに私にはわれるのである。


【『生命の大陸』(三省堂1969年)/『死 私のアンソロジー7』田道雄編(筑摩書房1972年)】


生命の大陸 生と死の文学的考察


死 私のアンソロジー7