榎本加代


【愛知県】


 私の母は、小学校の時から信しており、18歳のときに岐阜県の電気もない山奥から古屋に就職してきました。就職先の社長の子が私の父です。


 恋が芽生え、二人は結婚したいと社長である、おじいちゃんに話すのですが、大反対されました。「何万という女の中から、なぜ目が不自由で(母は小さい頃から目が不自由で、真っ黒い大きな眼鏡をかけていました)、片親で、創価学会に入っていて、山奥から出てきた得体の知れない女を選ぶのか」と言われます。父はあきらめきれずに1年後もう一度頼んだところ、社長は「結婚するなら次期社長としての仕事もなくなるし、財産も与えないし、戸籍からもはずす。それでもいいか」と言われ、二人はなんと、駆け落ちをして結婚してしまいました。


 つても縁もなく生活を始めたところが四畳半一間の部屋。こんな貧乏のどん底で生まれたのが長女の私で、二人の弟も次々と生まれました。二人は仕事もなく、饅頭を袋に詰める内職をして暮らしました。どれくらい貧乏かといいますと、私が物ついた頃は両親の愛も冷めかけ、働けど働けど残るのは疲労と空腹だけで、5人で1合の御飯を食べ、おかずは内職のお饅頭のはみ出したあんこでした。私が「あんこがおかずなんてイヤだ。気持ち悪い」と言うと、母は「あんこと御飯だとうから気持ち悪いんだ。おはぎといなさい」と言って食べさせました。


 結婚するためだけで入信した父は次第に、御本尊様を見ると「この紙切れがあるから家は不幸なんだ。だいたい、おまえと結婚したことが不幸の始まりだ」と言い、母に殴る蹴るの暴力を振るい、御本尊様を何度も破ろうとしたり、捨てようとしました。そのたびに母は、御本尊様を守ってきました。こんな中、私たち姉弟3人は「こんな貧乏で、喧嘩の絶えない宗教は、絶対にしないでおこうね」と誓い合っていました。 中学校の時も、社会は豊かなのに、我が家は学校に持っていくお弁当がおにぎりだけでした。、母が1個握るのに20分かけるのです。学校でいじめられないようにと、おにぎりに題目を送っていたんです。本当にいじめられるどころか、にんじん、ごぼう、ピーマンなど、残すと母親に叱られると言って、みんなが自分の嫌いな食べ物をくれるので、それをおかずにして食べました。弟たちの教室にも行って分けてあげ、みんなからは謝され、おかげで私は健康で病気もしませんでした。


 父が家に帰らなくなり、借金取りがきたりして、母は一人で3人の子供たちを守ってきました。私は、この御本尊様を捨ててしまえば幸福になれるのではないかと、何度も母に言ったりしました。ある時、お菓子会社に7件の下請けがだまされ、莫大な借金を背負いました。その内、5件が夜逃げをし、1件が一家中をし、残ったのが我が家でした。父は寝込んでしまいましたが、母は明るく「お父さん、がんばろう。家には3人の宝がいるんだから」と言って、昼は内職、夜は土方のような仕事に行くのです。ある日、夜中に、あんなに元気な母が泣きながらお題目を唱えている姿を見た時、こんなちっぽけな女がこんなに強くなれるんだから、この紙(御本尊)には凄い力があるのかなと、ちょっぴり子供ったんです。


 高校3年の時に、家族を幸福にするのは私しかいないと一人発し、いい大学に入り、いい会社に入って、お金持ちと結婚するんだ、といました。お題目をあげることを知らなかった私は、とにかく努力だと決め、学校から帰ると8時間の勉強をし、先生も手作りの問題集で応援してくれました。1年間本当によく勉強し、友達からも、先生からも、絶対受かると言われた国立古屋大学を受験することになったんです。


 ところが、受験の3日前に交通事故にあってしまい、病院のベッドで気がついた時には、昨日が受験日だったと聞かされました。その時、私の夢がガタガタと崩れ落ちていきました。どん底に落ち込んでいた時に、母が枕元にやってきて「これが宿命よ」と追い討ちをかけるように言いました。おまけに今度は父がニコニコしながら「なあなあ加代、おまえの左足はな、あまり強く打ちすぎて砕けてしまった。放っておくと骨肉腫になるので、3cmくらい骨を削った。おまえは身体障害者になったぞ。すごいんだぞ、手帳がもらえて、電車もバスもただで乗れるぞ」と明るく言うのです。こんな両親の元に生まれた私は、世界で一番不幸者だとってしまいました。


 しばらくして父が「そんなに勉強が好きなら2年間ぐらい、ゆっくり身体を休めるために専門学校にでも行ったらどうだ。自分のお金でな」と言うんです。自分のお金で行くことになった学校は、論文試験だけの誰も知らない五流短大で、栄養士になれる学校でした。2年後、就職活動に入りました。先生から「君は身体が不自由だが明るいので、同じ境遇の人を元気にしてあげられるから、福祉関係の仕事に就いたらどうだ。給料は半分ぐらいだが、やりがいがあるぞ」と奨められたのですが、どうしても高校3年の時の夢があきらめきれず、先生の反対を押し切って、ある一流商社を訪問したんです。ところが、そこは採用する大学は決まっていて、その他の学校からは400人中3人ぐらいしか入れないと言われ、それにはコネがいるとのことでした。なんと自分はちっぽけな人間なんだろうと悶々としながら帰る途中で、またもや交通事故にあってしまいました。幸い、右膝の打撲で済んだのですが、救急車の中でいました。「これが母の言っていた宿命なのかな。人生の大事な時に自分の身体を傷つけてしまう。そういう宿命だとしたら早く消さなきゃ、就職も結婚もできなくなってしまう。ひょっとしたら題目を唱えると消えるのかな……」


 そんな時、女子部の部長から「今度、古屋で全国女子部幹部会があり、秋谷会長と佐野女子部長が来るんですが、来ませんよね」と言うので、私は「行きます」と言って、初めて学会の会合に参加したのです。その時、女子部長が「皆さん、1000万遍のお題目をあげて宿命転換していきましょう!」と明るく言ったんです。そうか、宿命転換の鍵は1000万遍のお題目だとい、どうやってあげるのかと女子部長に聞きました。


「そうね、1日2時間半から3時間くらいを、3年か4年あげると1000万遍あがるらしいよ」「らしいって、あげたことないんですか」「あげたことがないからすごいのよ」と言われました。不可能が可能になる御本尊とも言われたので「本当ですか?」「本当よ」「今、就職した会社があるんです」「どこですか?」「三菱商事です」「時々、かなわないこともあるわよ」「かなわないんですか」「その人にとってよくないことはかなわないわよ」。その日から1日1万遍のお題目を4年間1日も欠かさずにあげきったのです。


 100万遍くらいあげた時、あるホテルの食堂でアルバイトをしていた頃です。毎週土曜日になると恰幅のいいおじさんが私を指してカレーライスを注文してくれました。そのお客さんが、なんと東京の三菱商事の鉄鋼部の部長だったのです。2年間、私を指して応援してくれていて、私が「三菱商事に入社したいから、ここに就職しないでアルバイトでいるんです」と言うと、翌週、一緒に会社に行き、紹介状を書いてくれ、入社試験が受けられることになったんです。


 試験前日のこと、いつもは無口な弟が古屋オリンピックが、どうして駄目になったかを1時間半話してくれました。私は「わかった。お姉ちゃんはあと1時間題目をあげなきゃならないからね」と切り上げたのですが、翌日の論文試験のテーマがなんと「古屋オリンピック」だったんです。この時ばかりは鳥肌が立ち、御本尊様、なんてことをしてくれるんですか、といました。前日、聞いたばかりの話を原稿用紙10枚に完璧に書き上げ、見事3人の中に入りました。二人は直ぐに決まり、あと一人を決める時、身体障害者である私を、税金が安くなるからと採用してくれました。


 就職してから私の人生は180度変わりました。洋服を買っても買っても、御飯を食べても食べても、家族にお金をあげてもあげても、お金が余ってしまうのです。お金ってあることころにはあったんだなあといました。


 半年後、社内で2000人を対象に、7人が海外研修に行ける試験がありました。下手だったワープロも、試験当日は手が勝手に動いてしまうじで、誤字脱字のない早打ちで一番を取ってしまいました。面接の日、普段あまり読まない新聞に目を通していくと、試験管から「杉について知っていることを言いなさい」と言われ、、新聞で読んだばかりのことを話しました。またもや、7人の一人に選ばれ、そのことでお給料が倍になってしまいました。


 海外研修に行ったあとの6人は30代後半から40代の人で、1ヶの世界一周の研修の半ばで、疲労からみんな倒れてしまい、元気なのは私一人で、レポートを書いてあげたり、一生懸命尽くしました。「なぜ、あなたはそんなに元気なの?」と聞かれ、「元気の素はこれです」とお経本を見せました。そして、全員で勤行をし、元気に帰ってくると、6人とも御本尊様を頂くことになったんです。その内の4人は既に結婚し、幸福になっています。折伏って、信の年数や教学力じゃなく、元気が一番なんだといました。お題目をあげると、人生がこんなに面白いように変わるんだと楽しくなり、早く1000万遍あげようといました。


 1000万遍あげてどうなったか、聞きたいですよね?


 その結果、一家5人が父の背中を見ながら、6時半に勤行をするようになりました。


 まず、父は、親友の子さんの足が骨肉腫にかかり、切断することになったので、その親友から晩1遍の題目でいいから子の左足に題目を送ってくれと言われました。翌、南無妙法蓮華経とたった1回唱えたら、突然、バケツ一杯の血を吐き、医者からは喉頭癌と診断され、放っておいたらあと半年の命だったことがわかりました。母は「お父さん、あと半年だって。散々、私をいじめ池田先生の悪口を言ってきたから、しようがないよね。手術してが出なくなっても、題目をあげようね」と言いました。それから2年間、父は死ぬようなしみを乗り越え、病院のベッドの上で毎日、10時間の題目をあげて完治しました。


 下の弟は中学を出ると、板前の修に行くと言って、独立しました。下宿先の大家さんが学会員で、ある時、家賃が払えなくなり、それなら身体で返してもらおうかと言われ、御本尊様を頂きました。上の弟は大学で、自分がこんな人になりたいと尊敬していた先輩が、学生部の部長で、信することができました。


 私もその頃は女子部の本部長になっていました。ある年、毎年の身体障害者の申請のために足を調べてみると、骨が伸びて両足が同じ長さになっていて、障害者手帳は出せないということになり、私は普通の人になりました。以来、電車もバスもお金を払って乗っています。


 その間、父が考案したコーンの上にマシュマロをのせたお菓子が当たり、特許をもらい、お菓子会社から300坪の土地に200坪の工場と100坪の家を建ててもらい、長屋から引っ越して、気がついたら家族5人が使っても使ってもなくならいという経済革命ができました。20項目ぐらいあげた願いが全部かなっていました。あと1000万遍あげて、目標だった結婚をしようといました。


 結婚した相手は、同じ三菱商事の人で、ちょっと変わった人でした。ある日、創価学会について知りたいと言ってきたので、池田先生とトインビー博士の対談集を見せたら、動して眠れなかったと言い、小説『人間革命』を読むと、「お花もお茶もいい師匠につけば上達する。人生においてもこんなすごい師匠につけば間違いないですね」と言って、「僕も創価学会に入りたいです」と言うので、晩勤行をして毎日10000遍のお題目をあげて、新聞啓蒙するのよと教えたところ、結婚するまでずっと続け、結婚してからも8年間、二人で題目をあげ続けています。


 二人目の女の子が生まれた時、おへその取れ方が悪く、腸がおへそに入り込み、膨れ上がってしまいました。今は手術ができないので様子を見ようということになりました。3日目におへそがカチカチになり、血液が逆流し、顔が真っ青になってしまいました。千代の富士の子供と同じ突然死だと言われましたが、臓がまだ動いていたので、身体を柔らかくする注射を打ち、手術をすることになりました。手術までの3日間、主人と二人で10時間の唱題をしました。人生の中で、どんなに自分の力を振り絞っても、どんなにお金を積んでもかなわないことがあるんだ、もう題目しかない、これ以上この子のためにしてあげられることはない、というくらい題目をあげました。


 手術当日、最後の面会に行き、子供の身体をさすりながら「絶対、生きて帰ってきて」とお題目をあげると、出ていたおへそが引っ込んでしまい、手術ができなくなりました。それから3日間、72時間題目をあげ続け、身体をさすり続けました。3日目に身体がふわっと柔らかくなり、ピンク色になりました。そして、お腹が空いたように泣きをあげたのです。その後、2年間通院するように言われ、2歳の時に医者から「研究費です」と50万円を出されました。今までだったら、お金に執着していたとうのですが、その時ばかりは50万円がただの紙切れに見えました。お金はいらない、生命より尊いものはない、といました。


 学会活動とお題目が、いざという時に救ってくれるんだ、私たちは毎日、その因を積んでいるんだ、本当にありがたいなとい、21世紀まで目標を決め、主人と二人で毎日、題目をあげています。題目のすごさは語り尽くせませんけれど、一人でも多くの人に語っていきたいといます。学会員でよかったなあと謝する毎日です。