やさしくない教学


 来る97日、任用試験が行われる。新入会のメンバーや、既に何度か受けている方もいることだろう。教学は決してやさしくない。だからこそ、そこに挑戦してゆく青年は美しい。


 信仰を支えているのは体験と哲学(教学)に他ならない。これはスポーツや音楽の世界でも同様だろう。ルール(あるいは法則)や作戦などを知らねば一流にはなれない。


「私は体験があるから大丈夫」とい込んでいる人もいるかもしれない。確かに何らかの体験があれば、それに応じて確信が深まるものだ。しかし、自分が今まで体験したことのない事態に遭遇したらどうなるのか? 一人の人間の限られた時間で体験できることは、それほど多くはない。


 戦前、創価学会が弾圧を受け、その際、20の最高幹部が当局に逮捕された。国家権力の迫害に屈しなかったのは初代会長・牧口常三郎先生と、二代会長・戸田城聖先生のお二方だけであった。戸田先生は幹部でありながら退転した原因を「教学がなかったからだ」とされ、出獄後、学会の再建を法華経講義から開始された。これが真実の歴史である。それ以来、座談会と教学が学会の伝統であり、「剣豪の修行」の如き研鑚こそ、青年部の誉れとなっている。


 大聖人は「行学の二道をはげみ候べし」(1361頁)と仰せだ。ともすると肉体派が目立つ男子部の中で、教学を軽んずる風潮が散見される。結果さえ出せばよいといったも時折、聞かれる。振り返ると、教学部長が退転した事実を見て、教学への不信が蔓延したこともあった。


 だが、そうではない。体験だけの話では普遍が欠ける。教学という哲理があって、初めて万人を納得させることができるのだ。


 法はどこにあるのか? 経典の中にあるのか、はたまた、伽藍(がらん)や会館、あるいは、壇の中にあるのか? 大聖人はこう仰せだ。


「行学たへなば法はあるべからず」(1361頁)と。


 絶えることのない行学のなかに法はある。


 灼熱の夏を迎える。同じ汗をかくのであれば、偉大なる実践と研鑚によって崇高なる汗を流そう。