「どう見えるか」ではなく「どうあるか」

 聞も利も、真実の前にははかない。人に「どう見えるか」ではない。自分が「どうあるか」である。仮に他人はごまかせたとしても、自分はごまかせない。自分自身が納得できない生き方をして、本物の人生を送れるはずがない。


【第2回全国青年部幹部会 1988-03-12 創価文化会館


 有な指導である。妙の照覧を確信すれば、自分を売り込む必要などないはずだ。ところが、たまに、みみっちい者がいて、自分がどれほど頑張っているかを一生懸命、力説する浅ましい姿をさらけ出す。唱題を1時間以上やると、しゃべらずにはいられない男子部とか、やたら役職を誇示する愚かな幹部なども同様(笑)。


 昭和24年から25年にかけて、戸田先生池田先生にとって最大のの時であった。若き先生はうように学会活動ができず、組織では陰口を叩く先輩もいたという。さしずめ、竜年光あたりだろう。


 世間で何を言われようが、自身の幸福とは関係ない。組織においても同じだ。婦人部の口に戸は立てられない。


 御本尊と先生の前に晴朗なで立つことができれば、それでよし。同志を誹謗し、あらぬ噂に興じるような連中には、必ずや厳が下る。


 組織や個人の状況を尋ねると、必ず言いわけしてくるようなのも時折、見かける。きっと、死んだ後も閻大王の前で言いわけするのだろう。


「自分がどうあるか」これが人生を主体的に生きる者の態度であろう。信とは、自分と御本尊の関係で決まる。組織で社内営をするようなのは、信が弱い証拠だ。「どう見えるか」というのは世間に媚びた生きざまに他ならない。下らないパフォーマンスは不要だ。幹部にタレント根は要らない。