祈りは勇気

 祈り――それは、あきらめない勇気だ。自分には無理だと、うなだれる惰弱さを叩き出す戦いだ。“現状は変えられる! 必ず!”。確信を命の底に刻み込む作だ。
 祈り――それは恐怖の破壊なのだ。悲哀の追放なのだ。希望の点火なのだ。運命のシナリオを書きかえる革命なのだ。
 自らを信じよ! 卑下するなかれ! 卑下は法への違背だ。胸中の界への冒涜だからだ。
 祈り――それは我が生命のギアを大宇宙の回転に噛み合わせる挑戦だ。宇宙に包まれていた自分が、宇宙を包み返し、全宇宙を味方にして、幸福幸福へと回転し始める逆転のドラマなのだ。
 人間は人間――その人間の可能の扉を次から次へと開いていく《鍵》(キー)が祈りなのである。


【「我がふるさとは世界」第26回/聖教新聞 2004-10-10付】


「指導を受けに行っても、どうせ『題目だ』って言われるに決まってる」。時折、こんな話をにする。「わかってんなら、やりなさいよ」とも言いたくなりますわな(笑)。ま、ちょいとばかり肩を持ってあげると、確かに安易な指導も目につく。


 数日前にこんなことがあった。ちょっと問題のある男子部メンバーの受け入れで、男子部がもたもたしていた。私が直接やり取りすると、怒鳴りつけることがハッキリしていたため、支部長経由で男子部の部長に伝えてもらった。


 このことをある幹部に話したところ、「まともな好青年であれば、男子部だって、直ぐに行くことでしょう。色々と過去にあったようですから、慎重になるのも仕方ないんじゃないですか?」だってさ。「そりゃ、逆でしょうが!」と直ちに反論したものの、呆気(あっけ)にとられたあまり、怒るのを忘れてしまった。気合いを入れておくべきだったな。大失敗。既に後の祭り。

 涅槃経に云く「譬えば七子あり父母平等ならざるに非ざれども然れども病者に於て則ち偏(ひとえ)に重きが如し」等云云(253頁)


 問題があればあるほど配して、速やかに動くべきなのだ。問題があるからといって、躊躇(ちゅうちょ)するような腰抜けに何ができるというのだ!


 この本部幹部、「誰が面倒をみるべきなのか」という話をしているのに、「祈っていくしかありませんね」なんて言いやがる。「そんな話をしてるんじゃないんですよ」とたしなめておいた。


 私は気が長い方じゃないんで、この幹部を打倒してやろうかとっちまった(笑)。


 先生の言葉は、戸田先生の元で理不尽なまでの過酷な訓練を受け抜き、数え切れないほどの修羅場地獄をくぐり抜け、57年間にわたる大闘争の中から滴(したた)り落ちたものなのだ。それを、安易に引用したり、口先だけで真似ているような輩がいれば、師匠を地に貶(おとし)める行為であると断じておきたい。


 この指導を読めば、誰もが御本尊に向かいたくて仕方がなくなるだろう。それほどの大確信が込められている。