自他共に歓喜

 自身を、そして友を、いかなる時にも「歓喜の光彩」で包み込んでいく。これが法の指導者である。
 法を説ける身として、我がに無上の歓喜をわき立たせながら、人々をして生命の奥底(おうてい)からの喜びに目覚めさせていく。
 陽光が暗雲を払い、みるみる青空が広がっていくように、会う人ごとに希望と安を与え、「信の大歓喜」へと生命を開かせていく。ここに法のリーダーの存在の義があり、戦いがある。また真実の学会精神がある。


【第1回足立区支部長会 1988-06-19 足立池田講堂】


「真っ直ぐ立っている人を動かすのに、どのような方法があるか?」――これは青年部時代によく出した問題である。


 一番、手っ取り早いのは、ケツに針を刺せばいい(笑)。瞬時に動くことだろう。あと、蹴飛ばすとかね。但し、動くのは一瞬だけだ。針を刺した場合などは、飛び上がるだけで、一歩も動かない結果になりかねない。


 次に考えられるのは、後ろから背中を押すか、前から手を引っ張るかだ。こちらの体力次第であるが、どうしたって疲れる。


 やはり、長い旅路を共に進もうとすれば、手をつなぎ、肩を組み、互いを励まし合って、口笛でも吹きながらというのが理的だろう。


 とはいうものの実際は、打ち出しだけ発表して事足れりとしている幹部を時々、見受ける。集った人々のを傾けることなく、一方的に話している幹部もいる。また、言葉は丁寧で、にこやかな表情を浮かべながらも、その実、皆をコントロールしようと頑張ってるだけの幹部もいる。こういう幹部に限って、絶対に「私がやります!」とは言わないものだ(笑)。結局、「やれ、やれ」って話になってますな(笑)。


 先生は、「歓喜の光彩で包みゆけ」と仰せだ。我が信の一から、歓喜の光を発してゆく。全責任を担って、確信を込めて語りかけてゆく。そうすれば、自(おの)ずから自発・能動の精神が組織に漲(みなぎ)ってゆく。


「皆が、私のことをわかってくれない」なあんて言ってる内は、まだまだ甘い。そもそも、「わかってもらおう」という根がよくない。そんなのは、自分を正当化する詭弁だ。


 明るい笑いは、必ず人のを開かせ、笑いを誘う。喜びの人には誰もかなわない。楽しい雰囲気には、誰人も逆らえない。目指すは、「広布の喜び組」(笑)。


「今日は、くたびれたな。今から会合へ行けば、30分ほど参加できるが、どうしようかなあ? ……そうだ! あの人に会えるから、やっぱり行こう!」――願わくは、こういう存在になりたいもんですな。


 本日、生まれて初めて、炊き込みご飯を作った。出来合いの具を入れるだけのものなんだが、予以上に上手くできた。早速、近所で独り暮らしをしているおばあさんに届ける。「味の保証はできないからね」と言って手渡すと、ラップを外して「まあ、美味しそう」と手を叩いて喜んでた。