絶えず揺れ動く心

 まことに「」というものは絶えず揺れ動いている。放っておけば、いつしか悪道の方へと引きずられていってしまう。
 私どもも、その「」をいかに確固として定め、成への最極(さいごく)の軌道から外れないようにリードしていくか、ここに信指導の精髄があるといってよい。
 法は厳しい。信には妥協はない。社会的地位や誉、財産などとは一切関係がない。いかなることがあっても“二なく”(1498頁)、強盛に信を貫いていけるかどうかどうかである。
 ゆえに世間体を気にするような臆病な人や、常に自分のことしか考えない詐親(さしん)の人、そして惰弱なの人は、信を全うすることはできない。何か事があれば、悪縁に紛動されて退転し、清らかな信の世界から去っていかざるを得なくなる。そして結局は、地獄のようなしみの人生に自ら入っていくことになる。
 だからこそ私どもは、信にあっては厳しく言うべきことを言ってきた。それが信仰者としての、また学会の幹部としての責務である。あとは、を開いて成への大道を進んでいくか、あるいは痛いところをつかれて、恨みにい反発していくか、それはその人自身の責任である。


【第1回足立区支部長会 1988-06-19 足立池田講堂】

 此の世界は第六天の魔王の所領なり一切衆生は無始已来彼の王の眷属なり(1081頁)


 その上、末法衆生は「本未有善」の機根である。だから、悪縁だらけの世界といってよい。常に、悪縁という重力がのしかかっていることを自覚しなければならない。油断は禁物である。「進まざるは退転」というのは、精神論ではなくして、具体論であることを自覚したい。


 その悪縁に紛動されたとしか言いようがないのが、今日付の聖教新聞だ。私は紙面を開いて激昂した。どうして、先生の随筆がモノクロなのだ? 信じられないいがした。本幹を報じた一面がカラーだったからなどというのは、言いわけにすらならない。聖教も堕ちたものだ。


 ハッキリと書いておこう。今の聖教新聞は、先生に対しておんぶに抱っこだ。否、学会全体がそうかもしれない。外郭出版社に至っては、よくもまあ平然と先生の連載を掲載できるものだと、私は以前から呆れ果てていた。結果的に、師匠を利用して売り上げを伸ばすようなことになってやしないか?


 先生あっての聖教新聞であり、創価学会である。その師匠が、激務を割いて執筆された原稿を、よくもモノクロで掲載できたものだ。いつから、聖教新聞社はそんな増上慢になったのだ? 購読料が高くなろうが、自分達の給料を減らそうが、師匠の記事を最高に整えるのが弟子の義務ではないのか?


 空いた口が塞がらないとはこのことだ。が暗くなった学会員も多いことだろう。そういう民衆のを知らない職員しか、今の聖教にはいないのだろう。


 本部職員の知り合いがいる方は、この文章をコピーして、メールで送って欲しい。このままゆけば、聖教も本部も官僚主義の温床にしかならないからだ。


 この事実を知れば、世界190ヶ国の同志が怒り狂うに違いない。


 聖教よ、猛省せよ!