違いを生かせ

 学会においても同じである。“自分は幹部だから”“高い役職だから”後輩の言うことを聞く必要はない、などというのは本末転倒である。どこまでも「信」が根本である。組織上の立場をすべての基準とするいき方は、正しき信の姿勢ではない。
 人間の織りなす世界には、年齢や立場など様々な違いがある。問題は、その違いを生かしながら絶妙な調和の世界とするか、反対に、複雑で情的な葛藤の世界としてしまうか、である。
 その分かれ目は、やはり一人ひとりの「」「一」の姿勢にある。常に多くの人々から学び、成長していこうとの瑞々(みずみず)しい「求道の」を持っているかどうかにある。


【第6回本部幹部会 1988-06-21 創価文化会館


 30歳前後の頃、壮年・婦人の方から相談を受けるようになった。様々な支部や地区へ入った際、ちょっと配なことがあると、私は直ぐさま壮婦の幹部と連係をとった。そうした日常的な行動が信頼へとつながっていたのかも知れない。「こういう悩みを持っている人がいるんだけど……」と打ち明けられる機会が増えた。


 もちろん、若輩者の私がどうこうできるような問題は少なかった。ただ、相談を受けた以上は、何とかするしかない。で、私は次々と幹部の手配をした。私が絡んでいることを全く知られてないこともあったし、同席して一緒に指導を受ける機会も多かった。連れて行っただけの私が厳しく注をされたことも何度かあったが、全身で指導を受け切った。


 ここで私は多くのことを学んだ。昭和20年代から戦い続ける草創の大先輩が、悩の闇に一閃(いっせん)の光を放つ瞬間を何度となく目の当たりにした。その度に私は、戦った気になっていた自分を恥じ、の底から反省した。


 ある時、何気なく後輩の区幹部にこう語ったことがある。「ここに“創価学会”という饅頭(まんじゅう)があったとするわな。お前の知っている創価学会は、まあ、饅頭を包んでいるセロファンだな(笑)。で、俺の知っている創価学会は、さしずめ、饅頭の皮ってところだろう。そして、俺がいつも指導を受けにゆく、神田さんや、長峰さんが、アンコなんだよ。俺達、まだまだ修行が足らんな。いい気になってやってる内は、全然わかってないんだ」。


 神田さんという大先輩は指導をする際、必ずメモを取る。ある時、隣の区の会館でばったり会った。私の顔を見るや否や、「あの彼はどうしてる?」と訊ねられた。種々報告をすると、「ずっと気になってたんだよ」と一言。指導を受けたのは、半年前だった。「この年になっても、記憶力だけは衰えないんだ。アッハッハッハッ」と大きなで笑っておられた。既に80の坂を越えた方である。草創の蒲田支部にあっては、班長・班担で先生の奥様と組んでたそうだ。それからというもの、この方に指導を受けた場合は、何か変化がある度に必ず報告を入れるようになった。


 この神田さんの後輩に当たる長峰さんにも随分とお世話になった。神田さんが、牧口先生わせる謹厳実直なタイプだとすると、長峰さんは、ざっくばらんな下町のオヤジさんだった。このお二方、蒲田支部から一緒に戦っていて、実は長峰さんの方が役職は上だが、神田さんには絶対に頭が上がらない(笑)。「小野君、今の俺があるのは、神田さんのお陰なんだよ。テーブルの下に頭を突っ込みたくなるほど、厳しくやられたからなあ」と言っていつも笑っておられた。年は二つ三つしか違わないのだが、長峰さんの折り目正しさは、傍(はた)から見ていても、微笑ましくなるほどだった。


 長峰さんは、指導を受けにゆくと私に向かって必ずこう言われた。「小野君、いつも多くの同志の面倒をみてくれて、ありがとう!」と。「とんでもありません!」と応じても、頭を下げて、「君がいてくれるお陰で、組織が守られているんだよ」と言うのである。私は恐縮しながらも、大先輩の謙虚さに恐れを抱くようないがした。


 古谷さんが脳腫瘍の再発で倒れた時も、直ちに長峰さんに引き合わせた。本人と長峰さんが向かい合い、横に私と後輩のお母さんが座った。長峰さんの顔はいつもと異なり、にこやかさのかけらもなかった。


「御書に、『南無妙法蓮華経は師子吼の如しいかなる病さはりをなすべきや(1124頁)』とある。君、この御文を知っているか? 知っているなら、この御文で大聖人は何と言われているとう?」。後輩が通解のような所を述べた。長峰さんはじっとを傾けて、「長い! 長過ぎるぞ! どうして、大聖人は今の自分に対して、こう言われているといますと、スパッと言えないんだ!」。裂帛(れっぱく)の気合いだった。それからというもの、叱咤に次ぐ叱咤である。「池田先生が、青年部にこれだけの期待をされている時に、今の君の姿で応えられるのか!」、「本当に病気と闘い、病気に勝つ気があるのか!」――。


 そのあまりにも厳しい言葉の底には、「何としても彼を救うのだ!」という凄まじい一が込められていた。途中から、お母さんと私は、ただ黙って涙を流しながら、指導を拝した。「返事が小さい!」、「が小さいぞ!」と何度も何度も叱責が飛んだ。


 まるで襟首でもつかんで話しているような勢いで一時間ほど指導は続いた。と、後輩がテーブルから後ずさり、膝を正して大で叫んだ。「必ず勝ちます!」。「そうだ!」と言うなり長峰さんはテーブルに身を乗り出して手を差し出した。固い握手を見たまま、お母さんと私は、ただ泣き濡れていた。


 後日、手術不可能であることが判明した。彼は、戦って、戦って、戦い抜いて、半年後に37歳で今世の使命を全うして霊山へと旅立った。この時、不議にも私は長峰さんと一緒にいた。彼が逝ったのは、「小野君、彼を頼むぞ!」と言われた、まさにその時だった。


 通夜にて、長峰さんを棺(ひつぎ)にご案内した。横たわる彼の安らかな顔を見て、長峰さんは語りかけた。「よく、頑張ったなあ。立派だ。おめでとう!」。そして、深々と頭を下げられた。早過ぎた彼の死を悼(いた)むよりも、彼の勝利を喜んで下さっているようだった。長峰さんはこうも語った。「色んな人に指導したり、激励したりしているけど、本当はこっちが教わっているんだよ」と。


 こうして、キーを打ちながらも、涙が溢れ出て仕方がない。何はともあれ、多くの先輩から学んできた学会魂を後輩に伝えてゆくのみ。