研鑚

 その味から、逝去の直前まで、広布のために、真剣に道を求め、索をこらしておられた牧口先生の透徹した姿勢こそ、私どもの模範であり、その尊き姿が、私の胸には鋭く、また深く映じてきてならない。
 妙法の眼を開けば、所詮“一切の法は皆是れ法”である。この究極の一点に我が身を置いて、強盛なる信を根本に、徹して学び、徹して索しゆくところに、広布への知恵を無限に開いていくことができる。全ての知識を生かす道がある。
 中途半端や、表面的な知識の受け売りでは、民衆をリードする真の力にはならない。
 社会的にも、現代の、特に日本には、ヨーロッパ等に比べ、生半可な、人真似に過ぎない・言論があまりにも多い。そうした脆弱(ぜいじゃく)な精神風土を変革していくのも、法を弘めゆく私どもの一つの重要な使命である。
 ゆえに、学会のリーダーは、誰よりも透徹した求道と索と、生きた力あるの人であってほしい。
 どこまでも民衆のために、時代の先端を切り開き、豊穣な精神の世界を限りなく開拓していく責任こそ不可欠である。
 それが、牧口先生戸田先生が身をもって教えられた指導者の道であった。


【第6回本部幹部会 1988-06-21 創価文化会館


 本日、学会創立74周年。年が明ければ、先生は喜寿(77歳)を迎えられ、明年はいよいよ創立75周年となる。


 牧口先生は60歳を越えてから英語を学ばれ、獄中にあっても、カントを精読されていた。


 法はどこにあるのか?

 行学たへなば法はあるべからず(1361頁)


 絶えざる行学の中に法はある。学会のリーダーは、広宣流布を使命とする以上、飽くまでも信で皆をリードしてゆくべきだ。役職や、タレントで引っ張っている者は、数年を経ずして必ず馬脚を露わす。行躰(ぎょうたい)即信であるが故に、信といっても行学の実践に尽きる。


 行に傾くと自己の経験を頼るので、どうしても話題が狭い範囲になりがち。学に偏ると、できもしない理論に終始しがち。


 自動車に例えると、ガソリンが信、エンジンが行、ハンドルが学といえようか。どんなに馬力のあるエンジンでも、ハンドルさばきを誤ると暴走してしまう。それとは逆に、ハンドル操作が巧みでも、エンジンが小さければ目的地に着く時間が掛かり過ぎる。元気がよくっても、ガソリンが少な過ぎてエンスト中の男子部なんぞも多いことだろう(笑)。


 法を基調とした知識は、必ず生かされてゆく。それを、先生は、世界の識者との対談によって示して下さっている。相手がどのような人物であろうと、どのような話題であろうとも、先生は悠々と法を語り、人生を語り、人間を語り抜かれている。「我が門下生よ、私の後に続け! 私を乗り越えよ!」との大いなる期待をじてならない。


 学んでいる人は変化に富んでいる。学んでいる人は謙虚だ。学んでいる人は、自分を変えるための努力を惜しまない。


 人生には限りがある。そうであれば、10代、20代で、どこまで深い基礎を作ることができたかで、人生の命運は決まる。壮年・婦人をアッと言わせるほどの研鑚を青年部に期待したい。


 そうそう、「研鑚ランキング」も参考にされたい(笑)。