正しき信心指導

 正しき信の指導を真剣に受け止め、真面目に実践した人は、見事な勝利の実証を示し、歓喜の人生を満喫している。反対に、信指導を小馬鹿にし、また同志の真の注を聞き流してきた人は、いつしか正しき信の軌道を外れ、哀れな退転の道を歩いている。これは皆さまもご存じの通りである。
正しき信指導は、一人ひとりが人生を開きゆく上で、まことに重要な義を持っている。


7.3各部合同総会 1988-06-26 創価文化会館


 この時期、一貫して繰り返されてる指導は、“信指導の重要”と“ただこそ大切なれ”に尽きる。実に、日顕の正体が露見する1年半前のこと。


 どうも近頃は、指導という言葉が誇大な顔つきとなって、本来の味と異なってきているようにう。元々は、創価教育が教授主義を否定し、指導主義を標榜していたことに端を発する。つまりこういうことだ。図画の手な教師が児童に教えるよりは、図画の得な児童の真似をさせた方がよい。何でもかんでも教師が教えなくてはならないと考える必要はなく、指導する程度でよいという考え方である。やや、語弊のある言い回しとなったが、アドバイザー的要素が強いとわれる。教える側と教えを請う側といった向かい合う関係ではなくして、児童と同じ側に立って、児童が本来持っている力を信じる温かさがそこにはある。


 これが敷衍(ふえん)して、

 質問を受けた場合も、わからないから指導ができないということはない。“わかる人のところへ一緒に行こう”これが立派な指導である。指導は一から十まで自分が教えるという教授主義ではいけない。指導主義の方がずっと価値があり、どこまでいっても行き詰まりはない。


【『指導メモ』1966-06-01発行】


 となる。


 指導を受ける側が誤解しているものだから、指導する側まで勘違いする場合もある。妙に物々しい態度で、何か凄いことを言ってやろう、なあんて手ぐすね引くような愚かな幹部もいる。こうなると、見当違い同士による境地冥合となりかねない(笑)。


 迷うから相談する。これだけの話である。その昔、指導を受けるとは、気合いを入れられることであり、弱い生命を叩き切られないと満足が得られないという、マゾ的な要素が強かった(笑)。先輩からバッサリやられて、再び元気一杯、現場に戻っていったものだ。


 指導を求める人がいても、それに応える幹部がいないと、組織は急速に澱(よど)んでゆく。後輩に希望を与えることができない幹部は、邪な存在だ。広布と信と団結を阻むの存在であると言い切っておこう。


 また、指導を受ける側が、納得できないからといって複数の幹部に指導を求めるケースも目につく。これも誤りだ。受け容れやすい言葉をいくら探したところで、現状を変える力にはならない。納得できなければ、その場で納得するまで指導を受け抜いてゆくのがセオリーだ。