日興上人と五老僧

 日興上人は、師敵対の五老僧らの変節の姿を一面では嘆かれつつ、胸中では悠然と見下ろしておられた。そして、今日の世界広布の「時」を、はるかに遠望されていた。
 私どもは門下として、この偉大なる御境界を深く、また真摯に拝していかねばならない。この日興上人の御確信を仰いで、私も世界の広布に走った。御書の翻訳も厳たる軌道に乗りつつある。
 そして今、いかなる不議な約束であろうか、まさにこの時に、はるか世界の各地から、使命の若人たちが一時に集いきたった。日興上人の仰せを、そのまま実現するため、世界の広宣流布のために立ち上がった青年リーダーたちである。私は、その輝くばかりの凛々しき姿を最大にたたえたい。
 ご承知の通り、五老僧は権力の迫害を恐れ「天台沙門」と称した。天台宗の権威のカゲに隠れ、「私は天台の弟子です」と乗ることで、圧迫を避けようとしたのである。
 それは大聖人門下としての「誇り」を捨て去り、泥にまみれさせる背信であった。権力への卑屈な迎合による自らの「保身」である。退転者のこの本質は、いつの世も変わらない。
 大聖人の法は悪しき権威・権力と、真っ向から戦う民衆の宗教である。にもかかわらず、世間の権威にすり寄り、権力にこびへつらい、ただ見ばえと格好の良い方へと、信を捨て転身していく。その根底は卑しく、臆病な「保身」以外の何ものでもない。要するに、権威に弱い自らのに負けただけの話である。
 そうした“格好主義”の権威主義的な体質は、彼らの行動のいたるところに表れている。大聖人の御書の扱いにおいてもそうだった。
 五老僧は、天台宗漢籍(漢文で書かれた書籍)を重視した。現代でいえば、殊更に“横文字”を重んじたり、しい哲学書を、わかりにくいがゆえにありがたかったり(大笑い)する態度に通じよう。
 そして、彼らは最も大切な師・大聖人の御書を見くだし、バカにしていった。特に大聖人が在家の門下のために、わかりやすい「かな文字」で書かれた御手紙に対する軽視と蔑視は、まことにはなはだしいものであった。
 彼らは、大聖人御直筆の御書をあろうことか、すき返して新しい紙にしたり、焼き捨てさえした。もしも後世に残すのならば、漢文に書きかえよとも主張した。
 何という増上慢であろうか。彼らの根底には、大ある師をも侮るがあった。御本に親しく教えを受けながら、その偉大さが彼らには全くわかっていなかった。哀れというほかない。
 次元は異なるが、かつて戸田先生の指導が、あまりにもやさしく、かみくだいて説かれているゆえに軽く見た人間もいた。五老僧らの慢に通じる姿であろう。
 そうした中、日興上人ただ御一人が、大聖人の御法門を完璧に令法久住せねばならないという大責任のもとに、懸命に御書の収集と筆写、保全に当たられた。また門下に御書を講じ、大聖人の正義を伝えきっていかれた。
 その日興上人の赤誠をも、五老僧らは「先師の恥辱を顕す」(1604頁)、すなわち“かな文字の御書を残すのは、大聖人の恥を顕すようなものだ”と誹謗する始末であった。
 まことに根底の「一」の狂いは恐ろしい。はじめは目に見えない、わずかな一の狂いが、やがて常軌を逸した振る舞いとなって、表面にあらわれてくる――。
 大聖人は「よくわかるように」「に入るように」と、庶民を抱きかかえられながら、かな文字を使い、わかりやすい言葉で大法を説き、残してくださった。
 その師匠の大慈大悲の御五老僧は踏みにじった。浅はかというには、あまりにも醜い根である。日興上人は彼らに巣食った「民衆への蔑視」を、また、その裏返しにほかならない「権力へのへつらい」のを厳然と破折しておられる。
民衆を守り、正法を守るためには、謗法とは一片の妥協も許されない。どこまでも、厳格な上にも厳格に処していかねばならない。
 それが日興上人の御精神であるし、学会精神である。要領よく妥協した方が、ある味で“利口”に見える場合も多い。しかし、信は信である。臆病なる妥協は、信の死を味する。
「民衆蔑視」と「権威へのこびへつらい」――五老僧を師敵対の転落の道に追いやったのは、他の誰でもない、彼ら自身であった。総じて、いかなるもっともらしい理由をつけようとも、退転は本人自身に原因がある。本人が悪いのである。
 にもかかわらず、自分の行き詰まりや不幸を、他人のせいにして、人をうらみ、憎んでいくのも退転者の常である。
 また、仮に退転や反逆の姿を現していなくとも、組織上の立場や、様々な権威を利用し、庶民を蔑視して、いばり、横暴に君臨していく――そうした行為そのものが、すでに五老僧に通じる「悪」であることを鋭く見抜かねばならない。そして芽の内に摘み取っておかねばならない。
 そうでなければ、いつしか組織の中でガン細胞のように広がり、その結果、本当に真面目(まじめ)で、純真な庶民がしんでしまう。指導者として、それは絶対に許すわけにはいかない。
 組織の拡大とともに、どの宗教もたどってきたであろう、こうした宿命的ともいうべき悪しき傾向に対し、私は身を挺して戦っているつもりである。
現存する大聖人の御書の御正本(しょうほん)には「ふりがな」がつけられている場合がある。その多くは日興上人が、門下が拝読しやすいようにと、御自ら筆を入れてくださったものである。
 五老僧と何と大きな違いであろうか。日興上人は大聖人の御を御とされ、世界の民衆のために、正しく、厳として大法を護持してくださった。
 そして「民衆のために『かな文字』で書かれた御書が、やがて必ず世界中の言葉に翻訳される。その時を見よ!」と大宣言しておられる。
 まさに今、「その時」が来たわけである。
 ともあれ、どこまでも民衆を愛し、「民衆の大地」に根ざしていく――これ以外に正しき広宣流布の大道はない。この大道こそが、大聖人の仰せである「一閻浮提の流布」へと真っ直ぐに通じている。
 かつて学会は「貧乏人と病人の集まり」と侮蔑された。しかし、実はそうした最もしんでいる“庶民の中の庶民”の海に飛び込み、傲慢な権威からの侮蔑を受けきって、民衆と共に走り抜いてきたからこそ、今日の世界的な、壮大な発展がある。
その歩みはまた、お一人お一人の人生の凱歌の歴史でもある。


【第7回本部幹部会 1988-07-26 創価文化会館


 この師ありて、大聖人の精神が現代に脈々と蘇ったことを、しみじみとずる。


 開目抄に云く、

 濁世の悪比丘はの方便随宜の所説の法を知らず悪口し顰蹙(ひんしゅく)し数数(しばしば)擯出(ひんずい)せられん(224頁)


 この「数数見擯出(さくさくけんひんずい)」という法華経の文は、開目抄だけでも3ヶ所にわたって書かれている。大聖人は伊豆と佐渡へ二度、流罪された。池田先生は二度にわたって日蓮正宗からを受けた。「少少のはかずしらず」(200頁)という状況だったことことは容易に像がつく。


 創価ルネサンスは、現代における大乗精神の復興であり、民衆が主役となる時代を開く運動であった。民衆という大地を離れた・運動は必ず衰退してゆく。民衆のを知り、民衆のを高め、民衆を蘇生させてゆくのが我等の闘争だ。民衆からの支持を失ったリーダーは、所詮、権威主義の虜(とりこ)であり、民衆を踏み台にして自分の地位を上げることに余がないのだ。


 だから、自分の見も言わず、じっと我慢しているような姿勢は、創価の精神ではない。波風を立てないことが団結だとったら大間違いだ。互いに腹蔵なく話し合って、時にぶつかり合い、誤解を乗り越えるまで話し合うのが本来の姿であろう。


 幹部におべっかを使う者、幹部がいると態度が変わる者は信用ならない。掌(てのひら)を返すようにコロコロとを変えるような手合いが、いざという時に後輩を守れるはずがない。


 五老僧の歴史はあまりにも重い。大聖人の側近中の側近ともいえる6の内、5人が信を全うできなかったのだから。実に17%という確率だ。


 先生は今、次の1000年をにらんで指導して下さっている。その指導をわかったような気になってたり、自分勝手に考えたりするようなことがあれば、五老僧になりかねないことを肝に銘じておきたい。