食法餓鬼

 さて、ここで「食法餓鬼(じきほうがき)」について、少々論じておきたい。これは、小乗教の阿含部にあたる「正法処経(しょうぼうねんじょきょう)」に説かれた36種の餓鬼の一つで、「法を食する餓鬼」のである。同経には「不浄の法を以て人の為に宣説(せんぜつ)し、財を得て自供(じぐ)せるも布施を行わず、蔵を挙げて積聚(つ)み、是の人、此の嫉妬覆うを以て、命終りて悪道の中に生まれ、食法餓鬼の身を受けたるなり」とある。
 つまり、衆生に不浄の法を説き、財を得ても人には施さない。富を積んで、嫉妬のに覆(おお)われているゆえに悪道に堕した生命といってよい。


 日蓮大聖人は「四条金吾殿御返事」で次のように仰せである。
「食法がきと申すは出家となりて法を弘むる人・我は法を説けば人尊敬(そんぎょう)するなんどひて利のを以て人にすぐれんとうて今生をわたり衆生をたすけず父母をすくふべきもなき人を食法がきとて法をくらふがきと申すなり」(1111頁)
 ――食法餓鬼という餓鬼は、出家となって法を弘める人の内、自分が法を説けば、人は尊敬するなどとい、利のをもって人よりもすぐれようとって今生をわたり、衆生を助けず、父母を救おうというもない人を食法餓鬼、つまり、法を食らう餓鬼というのである――と。
 更に、「当世の僧を見るに人に・かくして我一人ばかり供養をうくる人もあり是は狗犬の僧と涅槃経に見えたり、是は未来には牛頭(ごず)と云う鬼となるべし」(1111頁)
 ――当世の僧侶を見ると、人には隠して、自分一人ばかり供養を受ける人もある。この人は、狗犬の僧と涅槃経に説かれている。この者は未来世には牛頭(頭が牛で、身体が人間)という鬼となる――。
「又人に知らせて供養をうくるとも欲に住して人に施す事なき人もあり・是は未来には馬頭(めず)と云う鬼となり候」(1112頁)
 ――また人に(法を)知らせて供養を受けたとしても、欲に住して人に施すことのない人もある。この者は未来世に馬頭(頭が馬で、身体が人間)という鬼となる――。


 ここまでは出家の僧侶についての御文と拝される。
 大聖人は続いて、在家の門下に対しても、こう御指南されている。
「又在家の人人も我が父母・地獄・餓鬼・畜生におちて患(くげん)をうくるをば・とぶらはずして我は衣服(えぶく)飲食(おんじき)にあきみち牛馬眷属・充満して我がに任せて・たのしむ人をば・いかに父母のうらやましく恨み給うらん」(1112頁)
 ――また、在家の人々でも、父母が地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちてしみを受けているのを弔(とむら)わないで、自身は衣服、飲食に飽き満ち、牛馬、眷属は充満して、自分のに任せて楽しむ人を、どれほど父母に羨み恨まれるであろうか――と。
 そして大聖人は、こうした餓鬼の本質を鋭く喝破され、「形は人にして畜生のごとし人頭鹿(にんずろく)とも申すべきなり」(1112頁)――形は人間であっても畜生のようなものである。人頭鹿(表面は人間のようだが、は醜い獣のようなもの)ともいうべきである――と仰せになっている。


 正法を説き、大義のために奔走していたように見えても、利で退転し、「民衆のため」「社会のため」という尊い精神を失っていった者がいた。
 また、正義を演じつつも、実はと富を貪らんがためにのみ行動する者もいた。それは、まさに「形は人でも、本質は畜生」という醜悪な「餓鬼」の姿に他ならない。出家であれ、在家であれ、言説巧みに「法」を利用し、「法のため」を装って自身のみの繁栄を図っていく者は、要するに「法」を食いものにする邪の徒であり、「食法餓鬼」といわざるをえない。
 法は峻厳である。地位や誉のために「法」を勝手に悪用した者が、厳を受け、やがて悪道の海に沈むことは必然であり、これほど恐ろしいことはない。
 また、敷衍(ふえん)していえば、社会にあって政治や社会事、学問や芸術、医学等に携わり、本来、社会の進歩や民衆の幸福に貢献すべき立場にありながら、善の庶民を食いものとし、自己の営利栄達のみに腐するのも、広義の味で「食法餓鬼」といえるかもしれない。


【第9回全国青年部幹部会 1988-10-29 創価文化会館


 組織や社会で活躍しているように見えても、奥底(おうてい)の一が狂っていれば、信利用になるとの戒め。食法餓鬼は法利用。


 破壊僧・日顕の本が暴露されるのは、この指導から2年後のこと。「開目抄」の御文を拝すと更に理解が進む。

或は阿練若(あれんにゃ)に納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在つて自ら真の道を行ずと謂つて人間を軽賎する者有らん利養に貪著(とんぢゃく)するが故に白衣(びゃくえ)の与に法を説いて世に恭敬せらるることを為(う)ること六通の羅漢の如くならん、是の人悪を懐(いだ)き常に世俗の事を(おも)い阿練若に仮て好んで我等が過を出さん、常に大衆の中に在つて我等を毀(そし)らんと欲するが故に国王大臣婆羅門居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人外道の論議を説くと謂わん(224頁)


【通解】あるいは人里離れた閑静な場所に衣をまとい、静かな所で真の道をしているとい、世事にあくせくする人間を軽賤する者があるであろう。私利私欲を得る目的で在家のために法を説いて、その結果、形の上では六通の羅漢のように尊敬されるであろう。この人は悪を抱き、常に世俗の事をい、閑静な場所にいるという理由だけで、自己保身のため正法の者の悪口を並べ立てるであろう。常に大衆の中にあって正法の行者を毀るため、国王や大臣や波羅門居士およびその他の比丘衆にむかって誹謗して、我等の悪を説いて「これは邪見の人であり、外道の論議を説いている」というのであろう。


日顕の登場によって、初めての底から実できる御書となった」と辻副会長が語った一文。その特徴を挙げてみよう。

  • 自ら真の道を行ずと謂つて→「私は正しい」というい上がり。
  • 人間を軽賎する→民衆を小馬鹿にする。
  • 利養に貪著する→損得勘定で動く。
  • 世に恭敬せらるること→特別な存在として尊敬されている。
  • を懐き→狡賢(ずるがしこ)く計算高い
  • 常に世俗の事をい→世俗的な利や損得を常に考えている。
  • 阿練若に仮て好んで我等が過を出さん→「あの人は間違っている」と批判する。

阿練若【あれんにゃ】
 山林、原野等を味し、人里から近からず遠からず離れた、比丘が修行するのに閑静で好適な場所をいう。一般には、人里離れた山寺や寺院等のこと、またそのような所で法を説く比丘という味にも使われる。
【『教哲学大辞典』】


「ビンゴ!」としか言いようがない(笑)。

 大事には小瑞なし、大悪を(起)これば大善きたる、すでに大謗法国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげ(歎)かせ給うべき、迦葉尊者にあらずともまい(舞)をもまいぬべし、舎利弗にあらねども立つてをど(踊)りぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしにはをどりてこそいで給いしか、普賢菩薩の来るには大地を六種にうごかせり、事多しといへどもしげきゆへにとどむ、又又申すべし(1300頁)


 大悪と戦う中にのみ、大善の証明がある。大悪を打ち破ってこそ、大正法が広まる。


 そして、大事なことは、和合僧の中で大悪について語り合い、確認し、糾弾することによって、組織悪をも打開してゆけることだ。


 学会に利の幹部は要らない。家庭指導をしない幹部、トラブルを避ける幹部、ブロックに顔を出さない幹部は、いずれも利の幹部だ。現場に入ることもなく、偉そうな口をきく幹部を一掃しよう。