トウ穎超(えいちょう)女史

 5年前の第六次訪中の際、北京でお会いした時、トウ(登+オオザト)女史は「私は、池田先生がなされる仕事のこと、創価学会創価大学のことを、いつもい浮かべているのですよ」と語っておられた。今回の訪日団に託しての、おづかいからも、私は深く温かい女史の「」がじられてならない。
」というものはまことに不議である。どんなに遠く離れていても、また、活躍の舞台や立場は異なっていても、「信頼」と「友誼」のは、まっすぐに通い合う。なかんずく、信に命を賭けて戦っている人間と人間との間には、あらゆる夾雑物(きょうざつぶつ)を超えて、無言のうちに「魂」の共鳴が響き合うものだ。
 私には内外を問わず、世界の各地にそうした深き「人間の絆」、「魂と魂との絆」を結んだ友が多くいる。それは、私にとってかけがえのない「人生の宝」となっている。
 次元は異なるが、天台大師は「感応妙(かんのうみょう)」と述べている。これは衆生じ、がその衆生の機に応じることを味する。一次元からいえば、衆生との妙なる「」の交流ともいえよう。また、大聖人は“こそ大切なれ”と仰せである。清浄無垢なる信によってこそ、御本尊へと通じ、妙法の世界に包まれた楽しくも充実した人生を満喫できる。
 いずれにしても、人間どのような「」を持つかである。邪、悪、嫉みの、利用のは、多くの人々との魂の共鳴もない。実にわびしく、寂しい人生となってしまう。いわんや、そうしたでは御本尊に通じない。結局は何事も全て自分自身の「」の反映なのである。
 10年前の1979年(昭和54年)、陽春の412日、来日されたトウ女史と、元赤坂の迎賓館で再会した。
 その折、周総理が桜が好きだったこともあり、私ども夫婦の真として、八重桜をお贈りした。トウ女史は、時間が許せば私の家を訪問したかった、と言われながら、こぼれるような笑顔で喜ばれていた。
 実はこの再会は、私の会長勇退の10日ほど前のことであった。別れ際に、私がその向を伝えると、トウ女史は「まだまだ、若過ぎます。そして、何よりもあなたは人民から多くの支持を得ています。人民の支持のある限り、決して退いてはいけません」と、真剣な面持ちで言われた。
 人生の大先輩からの、からの励ましに対して、私は「ありがとうございます」と答えた。自分の進退は自分で決めることであるが、大変、ありがたい言葉だった。
 トウ女史は、人民を見下し、君臨しようとする勢力と絶対に妥協しなかった。
 かつて、いわゆる「四人組」の一人である江青毛沢東夫人)は、自分の側(そば)で働く服務員を奴隷のように扱った。江青は、自分の目より高い場所から話すことを認めず、このため服務員は腰をかがめるか、ひざまずくかしなければならなかったという。
 このような横暴な振る舞いをトウ女史は、断じて許さなかった。“一歩も退いてはなりません”との私への温かな直言も、そうしたご自身の戦いを踏まえての言葉であった、とわれてならない。
 近年、私どもの信仰の世界にも、自分の野のために学会員を利用し、踏みにじろうとした者が出た。正信会と称する悪侶や、学会に多大な迷惑をかけて退転した連中は、自分の欲望のとりことなって、純真な会員を踏み台とし、利用し抜いた者たちといってよい。ちょうど、中国の四人組と、その方程式は同じとみる人たちがいる。
 トウ女史は、あるとき私ども夫婦に、しみじみと語られたことがある。
「私は若い日、来同志(周総理のことを、女史はこう呼んでいた)と二人で約束したことがあるのです。それは、人民のために奉仕するということです」と。
 そして「このことは、死んでも変わりません」といわれ、周総理の遺骨を中国の大地に撒(ま)いたことも、その精神に則った上での、二人の秘められた約束であったと明かされていた。
 まさしく「人民とともに」「人民のために」――これがトウ女史と周総理のを結び、貫いていた根本の一点であった。
 私ども学会の幹部も、妙法の同志のために、学会員のためにとの一点を、どんなことがあっても忘れてはならない。
 学会員は広宣流布のために戦っておられる尊い子である。その方々を絶対に守り抜かなくてはいけない。また、その方々に尽くし切るために私どもがある。
 会員の方々こそ幸せになってほしい、素晴らしい人生であっていただきたいと願い、行動するのが幹部である。会員をないがしろにしたり、軽くみたりすることなど、もってのほかである。それを何かあると、自分の保身のために右顧左眄(うこさべん)して、目的を見失うような卑怯な人間になってはならない。それでは民衆の指導者でもないし、学会の幹部として失格である。
 ちなみにトウ女史の「穎超(えいちょう)」というお前には、“群を抜いて、すぐれる”との字義がある。「は体をあらわす」好例といってよい。
 アメリカのジャーナリストであるエドガー・スノー氏(1905-72年)は、中国の革命運動のさなか、激動の解放区に飛び込み、中国共産党の戦いを、いち早く世界に伝えた行動で有である。歴史の潮流と人物の真実を洞察し、正しく知らせる筋金入りのジャーナリストであった。こうした人物が今はあまりにも少ない。
 そのスノー氏がトウ女史のことを、「私の出会った中国の女の中で、最も鋭い政治的頭脳の持主の一人であった」(『アジアの戦争』森谷巌訳/筑摩書房)と絶賛したことは、よく知られている。
 それでいて、女史が人民の輪の中に飛び込んでいく振る舞いには、人を圧するような気位もなければ、澄ました気取りも微塵もない。
 少女の頃から変わらないようなおかっぱ頭。小柄な身体を、飾り気のない中山服(ちゅうざんふく)に包み、ざっくばらんで、いつも穏やかな微笑を浮かべておられる。
 私は、人民とともに生きる本当の「革命家」の風貌をそこにじる。
 学会の強さもまた、かけらほどの「気位」や「気取り」もなく、ありのままの庶民と人間を貫いてきたところにある。この一点が続く限り、学会は永久に発展していくことができる。
 反対に、指導者が自分をよく見せようと気取ったり、自分は特別なのだというような驕慢にとらわれたりしたのでは、そこには真の学会精神は全くない。リーダーが庶民と、いささかでも遊離した途端に、広宣流布の前進は失速していく。


【1.15合同記幹部会 1989-01-15 創価文化会館


「やめてはいけません」こう直言した人物は、民衆と共に戦い抜いてきた闘士だった。学会の側近幹部で「やめないで下さい」と言った者は一人もいなかった。「やむを得ない」、「仕方がない」というムードが蔓延していた。


 昭和54年のその時、私は16歳だった。何も知らない高等部だったとはいえ、与同罪は免れない。私に天草四郎並みの力があれば、何とかできたかもしれないのだ。


 不議なことだが、昭和54年を境にして、先生が会長に就任された昭和35年生まれのメンバーが、学生部・男子部となっている。


 トウ穎超(えいちょう)さんの言葉をうと、周来夫妻と先生の関係は、単なる国交回復にとどまらず、東洋広布を決定づけた運命的な出会いじてならない。この出会いがなかったならば、中国は現在と異なった顔を見せたことだろう。人類をが、巨人を引き合わせたとしか考えられない。


 我々にあっても、広布への決定(けつじょう)した使命と責任があれば、しかるべき出会いがあるものだ。狭い世界に安住している人は、どうしても成長が鈍い。それなりに頑張っているように見えながら、どこの組織であろうとも通用するメンバーは極めて少ない。訓練を受けてきた人や、修羅場をくぐり抜けてきた人には、瞬時に理解し合える阿吽(あうん)の呼吸がある。


 今年で、会長勇退から26年が経過した。何十年経とうが、私ので古傷となることはない。弟子が師匠を裏切った日が424日だ。

 小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬがれず、大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ(930頁)


 いつまでも先生に甘えることは許されない段階となった。弟子一同が総立ちとなって、報の誠を尽くす以外に道なし。


 風邪をひいてしまい、一昨日から頗(すこぶ)る体調悪し。昨日は丸一日寝てた。ご注あそばせ。