題目の鬼

 甲斐さんは、入信一年余でその初代地区部長となり、県下のすみずみまで走りまわって、やがて見事なる全国一の折伏成果を収めたのであった。
 いまだ会館がなかったころで、私は宮崎に行くたびに甲斐さんのお宅を訪ねている。そこが折伏戦の指揮所であった。“日本一の地区部長”は、風呂上がりのような血色のよい顔で「ワシら、題目じゃどこにも負けんです……。だからどんどん折伏ができっとですよ。ハハハ」と、まさに常勝将軍のように誇らしげに笑われていた。


 実際、甲斐さんは“題目の鬼”とまでいわれていた。
「ちょっと題目をあげようか」といえば1〜2時間、一緒に唱題する同志のあいだでは、よく「おい、甲斐支部長、ズボンのバンドをゆるめたぞ。……もういつ終わるかわからんど」とささやきあったという話もある。
「とにかく甲斐さんには“題目”で鍛えられた」と、草創をともに戦った宮崎の同志は、当時を懐かしんで口々に語っている。


【『忘れ得ぬ同志 1』/聖教新聞 1980-12-15付】


 昭和54年(1979年)、会長勇退の際の条件として、宗門は先生の口を封じた。それほどまでに、先生の雄弁を恐れていたのだ。翌、昭和55年(1980年)、先生はペンを執って反転攻勢の狼煙(のろし)を上げられた。729日から、『忘れ得ぬ同志』が、そして、810日からは、小説『人間革命』第11巻の連載が開始されたのだ。一旦は、水面下に隠れたように見えた“師弟の絆”が、再び赫々(かっかく)と燃え上がった。


『忘れ得ぬ同志』によって、長年にわたって広宣流布に尽くしてきた、無にして偉大なる民衆が宣揚され、青年部には草創の魂が打ち込まれた。


 甲斐速水(はやみ)さんは、宮崎の初代支部長をされた方。昭和31年(1956年)、10人のお子さんを抱えながら、原因不明の病に悩んでいたことが入会の動機だった。唱題によって病を克服した甲斐さんは、宮崎の地で果敢な折伏を。草創期の大阪でその勇を轟かせた。梅田支部所属、高千穂地区。

 甲斐さんは眠っていても、夢の中で折伏をしていたそうだ。


 この“夢の折伏”には、夜行列車などで同行した友がいつも驚かされたようである。居眠りしながら、大きなでハッキリ言うのである。
「おまえ、不幸になってもいいのか」
「策ばかりに走りよって……真剣に題目あげんといかんぞ」
 本気になって指導として開いた同志もいたという笑い話もある。


 これこそ、「昼夜十二時の持経者」(55頁)であろう。


 わずかな紙数で、先生はその人物の生と死を鮮やかに描き切っておられる。紹介されている方は限られているが、先生のは、全ての同志を讃えようとされていたに違いない。


 近頃、型破りな人物による伝説は、とんと聞かなくなった。一昔前には、どこの組織にも猛者(もさ)がいたものだ。


「題目だ」という幹部は多い。だが、一緒に唱える幹部は少ない(笑)。また、祈りが、“成果を出すための策”になっているケースさえ見受ける。「作戦としての唱題会」とかね(笑)。策の上に信が乗っかるようじゃ、何をやっても上手くいかないよ。


 男子部が新体制となった。これから、夏季友好期間を迎えるが、「“題目の鬼”よ出でよ」と期待するものである。