唱題のペース

問い


 地区や支部で唱題会を行った際に、いつも釈然とせず疑問にじることがあります。それは題目のペースです。池田先生の指導に、「勤行唱題は白馬が天空を駆けるような清々しいリズムで」とあります。しかし実際は、錦宝会の方が多いので、題目のペースが遅くなりがちで、導師がよいリズムであげていても、後ろにひきずられてしまうのです。更に、銘々が自分のペースで唱え、導師に合わせようとしません。幹部の方に指導を受けても明確な答えが返ってきませんので、下記の点、ぜひともご教示をお願いいたします。

小野不一


「唱題のペース」について質問が寄せられた。


「幹部に指導を受けても、明確な答えが返ってこない」と書かれていた。これは大問題だ。幹部が“迷う方向”へと追い風を送っているのだから。


 そこで、同じような疑問を抱いている方や、デタラメな幹部の犠牲になっている方のために、私の基本的な考え方を記しておきたい。参考にして頂けると幸いである。


 まず、窮屈に考える必要はない。「こうしなくてはいけない」とか、「こうあるべきだ」という考えが先行してしまえば、“型”にはめ込むような姿勢になりがちである。この点を踏まえた上で具体的に述べて参りたい。


 昨日付(2005-12-02)の「法と医学 第2回」で、いみじくも西山女ドクター部長が言っているが、1分60遍=1秒1遍が丁度いい。「最も落ち着いている時の臓のリズムと一致」するとあった。


 私の研究によれば(笑)、生命のリズムとして表れているのは、拍数、呼吸数、歩くスピードの三つ。これらは年齢によって変化してゆく。


 つまり、年を取れば取るほど題目のスピードは、どうしても遅くなりがちだ。ということは、高齢者が参加している唱題会の場合、少しゆっくりしたペースで行うのが親切というものだろう。導師が、「何が何でも、自分に合わせろ」というんじゃ、あまりにも狭量だ。後ろに合わせるぐらいの度量があって然るべきである。導師が皆に配慮し、皆がしっかりと呼吸を合わせようとするところに境地冥合がある。


 昔から、「白馬が天空を駆けるが如く」と指導されているが、南無妙法蓮華経という音自体にスピードと躍動がある。それに対して、南無阿弥陀は尻すぼみの哀音であるため、「ナンマイダブ」と発音されているのはご存じの通り。


 題目は正確な発音を。信してない人が聞いても「南無妙法蓮華経」と聞こえるようでなければいけない。「ナンミョウオウレンゲキョウ」、「ナンモウホウレンゲキョウ」、「アンミョウホウレゲキョウ」、「ナンミョウホウレンゲキョ」じゃ駄目。“正確にやってるつもり”になっているのが一番怖いところ。電話だって、番号が一つ違えば、全く別の家にかかってしまう。そして、音程は尻強に発音するのが正しい。


 次に、唱題会の諸法実相を――

  • 「唱題会」となると来ない人(笑)→これは、普段、勤行をしてない人だ。バレバレだね。
  • 必ず遅れて来る人→信が惰の人。勤行・唱題が“生活のリズム”の中になってない証拠。
  • 題目が導師と合わない人・題目にクセのある人→我見が強い。また、不平不満を抱き、幹部に対する不信がある。自分勝手。わがまま。
  • に力がなく、小さい人→確信がなく、自信がない。何事に対しても消極的になりがち。
  • が大き過ぎる人→火の信の典型。人が見ているところでは大いに頑張り、見てないところでは手抜きをするタイプ。「見せる信」だ。
  • 前に座らない人→責任がない。後から来る人のことを考えてない。導師に合わせようとする姿勢のなさ。

 単純に決めつけるわけにもいかないが、大体こんなじ。


 では、リズムが合ってさえいればいいかというと、そうではない。

 おのおのは随分の日蓮が・かたうど(方人)なり、しかるを・なづき(頭脳)をくだ(砕)きて・いの(祈)るに・いままで・しるし(験)のなきは・この中にの・ひるがへる人の有ると・をぼへ候ぞ、をもいあわぬ人を・いのるは水の上に火をたき空にいゑを・つくるなり(1225頁)


 祈る「」が合っているかどうかが最大事だ。


“形式的な唱題会”や、“作戦の上に乗っかった唱題会”であれば、やらない方がましだ。また、長時間の唱題会は、近隣の迷惑になりかねない。今、1時間以上の唱題会を行っているところは、本部に呼吸が合ってない。


「経」は「歌」である。ソロがあり、合唱があり、アップテンポがあり、バラードがあっていい。