慈悲の一念は敵をも見方に

 戸田先生はよく言われていた。「の世界は、慈悲深いで接すれば、いくらでも変化するということを忘れてはならない。
 ともかく、から礼儀正しく、から粘り強さをもって接していくことが大切である。ここに指導者の本当の姿がある」と。まことにその通りだとう。
「確信」と「誠」と「真実」を込めた対話は、必ずや相手のを揺さぶり動かさずにはおかない。
 人間のは複雑である。初めは反発があるかもしれない。表面的には色々な姿を示す場合もある。しかし、「真」の対話は、相手のに「何か」を与え、「何か」を植えつけているものだ。それはいわば、病んだ人に良薬を注射したようなものであり、やがて時とともに「悪」のを癒し、「理解」と「共鳴」の花を咲かせてゆく。“敵”さえも“味方”にしていくことができる。これが信の力であり、妙法の力なのである。
 ご存じのように、学会のこれまでの活動も、波が絶え間なく巌に打ち寄せては砕いていくような、「忍耐」と「確信」と「誠実」の「対話」の連続であった。この粘り強い努力によって、勝利の水かさは増し、今日の大発展の広宣の世界を築くことができた。その皆さま方の功績は、永遠に胸中より消え去ることはない。


【第19回本部幹部会 1989-07-14 世田谷区・東京池田記講堂】


 やられたら、やり返せ――このが憎悪の連鎖を育み、戦争に至る。他人と争い、相手よりも勝(まさ)ろうとする境涯は修羅界である。自分の弱さを真摯に見つめ、我が境涯の殻(から)を打ち破ってゆけば、「自分自身に生きる」人といえよう。


 人間関係は、情に支配される世界である。ちょっとした勘違いや誤解が、とんでもない亀裂となることも決して珍しくない。誰しも、そんな経験があることだろう。


 15年ほど前に、ある先輩がこんな話をしていた。

「俺はさ、会社じゃ平和主義じゃないんだよね(笑)。嫌いなヤツとは口も利(き)かないんだ。でも、この間、面白いことがあったんだよ。あることで喧嘩になって、もう、かれこれ2年以上も口を利かなくなった後輩がいたんだよ。それ以前は仲よしだったんだけどね。もうね、会社じゃ、目も合わせなかったなあ。で、昨日のことなんだけど、その後輩と廊下で擦れ違うなり、会議室に引っ張り込まれたんだ。で、ある企画の件で、俺に見を求めてきたんだよ。ハッキリ言ってさ、『そんなの、どうでもいいや』ってったんだけど、『オオ、いいねえ、凄いよ!』と言ってしまったんだよ。すると、その一言で後輩はがらっと変わったんだよ。それ以降は、昔みたいに、また仲よくなったんだよね。いやあ、適当に言った一言だったんだけど、やっぱり、言葉って大事だよなあ」


 あまりいい例じゃなかったね(笑)。ま、こういうことも、あるってことで。


 いは、必ず言葉や振る舞いとなって表れる。以ってえのあ、禅宗は一切衆生を救うために出現した。その軍勢に加わっているのであれば、秀(ひい)でたコミュニケーション能力が求められよう。


 鳴門教育大学の三宮真知子教授によれば、「自分が相手に誤解された」ということは比較的「気がつきやすい」のだが、「自分が相手を誤解した」ということには「気がつきにくい」という(聖教新聞 2005-12-04付)。


 誤解の内容には、1.聞き違い、2.指示語や省略語の取り違い、3.味の取り違い、4.発話図の取り違い、などに分けることができる。


「あの仕事は、もうやらなくていい」という場合の、「あの仕事」の中身を取り違えるのが、2に該当。4は、「どういうつもりで言ったのか」についての誤解。「ちょっと寒くないですか?」という言い方は、状況によっては、「暖房をつけて欲しい」、「窓を閉めて欲しい」といった“要求”と受け止められてしまう。


 三宮氏は、「誤解を避けるには、曖昧(あいまい)な言い方をせず、相手の立場から捉え直す」ことが大切であるとし、「わかりやすく、じよく伝える」のが大きなポイントであると指摘している。


 いずれにせよ、“策”であっては相手のに届かない。まず、相手に好を寄せることが大事だとう。つまり、「相手を好きになる努力」が求められるのだ。どうしても好きになれない人も、中にはいるだろう。だが、そこを避けて通れば、自分の成長はない。後々、必ず同じタイプの人と巡り合うことになる(笑)。慈悲が湧き立つほどの唱題に徹しよう。