鎌倉幕府の滅亡


 1192年に誕生した鎌倉幕府は、1333年に滅亡した。公家を倒し、武家による体制は、141年間をもって一旦、幕を閉じる。


 鎌倉幕府滅亡の原因は、二度にわたる蒙古襲来(元寇)にあった。

文永の役/文永11年(1274年)105〜20日


 元軍→船900隻 兵3万2000
 日本軍→九州の武士を中とした1万人

弘安の役/弘安4年(1281年)615日〜閏71日


 元軍→船4400隻 兵14万人
 日本軍→博多に4万人、山口県に2万5000人、瀬戸内海地方から京都までで6万人程度【参照


 更に、三度目の襲来に備えたのはいうまでもない。


 この時、集められた武士の殆どは、準備のために借金をして馳せ参じた。武士は元々農民である。土地を奪われたり、不当な税を課せられることに対して立ち上がった人々を、源頼がまとめ上げたものだ。この時代、戦って勝てば報酬があるのが当たり前だった。ギブ・アンド・テイクであればこそ、武士は命懸けで戦った。


 ところが、蒙古との戦いは、戦果としての土地もなければ、奪い取った財産もない。このため、賞らしい賞は与えられなかった。更に、子孫が増えつつあったことによって、武士の財産は分散せざるを得なくなっていた。


 こうした中で幕府は、弘安7年(1284年)に幕府沽却(売却)の質地・所領の和与などに関する条規を制定。更に、永仁5年(1297年)には徳政令を打ち出した。借金をチャラにして、質草の土地を元に返すという強行手段。訴訟も受理しないという徹底したものだった。これじゃあ、武士に金を貸す人はいなくなっちまう。


 1333年522日、北条高時(31歳)以下の一門283人が東勝寺で自害し、火を放った。鎌倉では6000人が自害したという。この年の27日に日興上人が亡くなられている。


 文応元年(1260年)に大聖人は「立正安国論」をもって国主を諌暁した。「自他叛逼(じたほんぴつ)の二によって国が滅びるであろう!」と警鐘を鳴らした。それは、「此れ偏に国土のを報ぜんが為」(34頁)という私のない進言だった。国をえばこそ、「之を用いざれば定めて後悔有る可し」(35頁)と、為政者の責任を呼び覚まそうとされた。


 大聖人の諌言から73年後、鎌倉幕府は滅亡した。大聖人の諌言を用いていれば、鎌倉幕府は滅亡を避けることができたのだ。事実上、国が滅んだといっていいだろう。