開目抄

 地観経に曰く「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」等云云(231頁)

 何かをはじめても、つづかないんじゃないか、三日坊主に終わってしまうんじゃないか、なんて余計な配はしなくていい。気まぐれでも、何でもかまわない。ふと惹かれるものがあったら、計画を考えないで、パッと、何でもいいから、自分のやりたいことに手を出してみるといい。
 それでもし駄目なら――つまりつづかなかったらつづかなかったでいいんだ。いいとうべきだ。
 計画なんていうことにこだわらず平気で捨ててみて、つまらなかったらやめればいい。
 途中で放棄しても、放棄してしまったということは余り考えない。日記を書きたい、書こうとったら、つづくかつづかないか、よりも書こうとったことの方が大事で、それをつづけなければならないと義務に縛られて書く必要はない。
 つまり、計画をもって日記なら日記をつづけて書こうとしても、すぐにつづかなかったら、また別の計画をもって、他のことをやってみる、それでまた長つづきがしなくて駄目になる。
 こういうふうにしょっちゅう計画が駄目になるということも、計画のうちに入るかもしれないんだ。
 つまり、さまざまのバリエーションで自分の運命を試すという“計画”を持つことになる。その方が、面白いじゃないか。
 ぼくは、昔から三日坊主でかまわない、その瞬間にすべてを賭けろ、という主義なんだ。だから、三日坊主になるという“計画”を持ったっていいとう。
 もう一つ。
「いまはまだ駄目だけれど、いずれ」と絶対に言わないこと。
“いずれ”なんていうヤツに限って、現在の自分に責任を持ってないからだ。生きるというのは、瞬間瞬間に情熱をほとばしらせて、現在に充実することだ。
 過去にこだわったり、未来でごまかすなんて根では、現在をほんとうに生きることはできない。
 ところで、とかく「いずれそうします」とか「昔はこうだった」と人は言う。そして現在の生き方をごましている。だから、ぼくはそういう言葉を聞くたびに、怒鳴りつけてやりたくなる。
“いずれ”なんていうヤツに、ほんとうの将来はありっこないし、懐古趣味も無責任だ。
 つまり、現在の自分に責任をとらないから懐古的になっているわけだ。
 しかし、人間がいちばん辛いいをしているのは、“現在”なんだ。やらなければならない、ベストをつくさなければならないのは、現在のこの瞬間にある。それを逃れるために“いずれ”とか“懐古趣味”になるんだ。
 懐古趣味というのは現実逃避だ。だから、過去だってそのときは辛くって逃避したんだろうけれど、現在が終わって過去になってしまうと安だから、懐かしくなるんだ。
 だから、そんなものにこだわっていないで、もっと現実を直視し、絶対をもって問題にぶつかって、たくましく生きるようにしていかなければいけない。


【『自分の中に毒を持て』岡本太郎(青春文庫)】


自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間”を捨てられるか