僧侶は必要か否か?


 1990年(平成2年)の「総講頭罷免」に端を発した宗門問題以降、多くの学会員は怒りに打ち震えながら、打倒日顕の狼煙(のろし)を上げた。それ以降、学会は、黒い鉄鎖を断ち切ったかの如く、隆々たる発展を遂げた。


 それまでは、僧侶が不可欠と考えられた葬儀法要、入会の儀式も、本来あるべき姿となった。更に、最大の問題とわれていた「御本尊下付」を乗り越えることによって、大聖人直系の完璧な和合僧となった。


 今、殆どの学会員が、僧侶の必要じてないことだろう。


 また、古代インドにおいて、バラモン階級がアーリア人の特権を守るために形成されたことを踏まえると、出家という存在自体が差別識によって生み出されたことが理解できよう。


 そして、何にも増して致命的なのは、世間知らずの僧侶が、在家を指導できるはずがないという現実だ。


 こうして考えてみると、何をどう論じたところで、僧侶が必要という答えは出て来ない。


 しかし、ここで私は一石を投じてみたい(笑)。実は、私は僧侶という存在は「あった方がいい」と以前から考えている。どうか、「キビシー」とか言わないで、最後まで読んで頂きたい(笑)。


 私は若い頃から、人がバタバタと死ぬ映画を好んで見ている。様々な死の場面から、強烈な生への識が芽生えるからだ。で、殆どの作品に共通するのは、正義の味方が、自分の家族を人質に捕われ、悪党の要求を一時的に飲まされてしまうというケース。こうした場面を見るたびに私は、「やっぱり、究極は僧侶じゃなきゃ、いかんなあ」とってしまうのだ(笑)。極限状況においては、家族が足かせになることがある好例といっていいんじゃないか? まあ、僧侶であっても、親が人質になることも考えられるが、出家なんだから、親子の情に流されるようなことがあってはならない。


 北鮮による拉致や、アジアを中とする外国人による犯罪など、その背景には、「家族が人質となっている」現実がある。多くの犯罪の殆どが「やらされた」ものである。


 在家の我々が生活するのは“経済”という舞台であって、そこは六道輪廻の世界である。資本主義というのは「金のある奴が勝つ」という仕組みだ。人生の殆どの時間を、我々はそこに費やしているわけだ。


 私は昔から、ストイシズム(禁欲主義)への憧れを抱いている(笑)。ストイックな自分になりたくて、「須藤一駆」というペンネームを使った時期もある(笑)。


 まあ、そういうこともあって、徹底して「行学の二道」に励んだら、どんな人間が出来上がるかを見たいのだ。


供養によって飯を食うのが僧侶ならば、本部職員は“現代の僧侶”といっていいんじゃないか?」という見もあるだろう。本当ならば、そうだろう。だが、多くの職員を見てきた私の結論は「ノー」だ。


 職員は権威に弱い。つまり、裏を返せば、権力志向が強い。職場での出世を考えるあまり、現場でのトラブルを回避する人物が多い。そもそも、開かれた採用法ではなく、出身大学の人脈や、副会長の子供などが重用(ちょうよう)されるような実態がある。彼等は、僧侶ではなく官僚だ。もっと、踏み込んだことも書けるんだけど、睨(にら)まれかねないので、この辺にしておこう(笑)。


 もう一点は、「研究者としての僧侶」の役割に期待したい。それなら、学者になりゃいいだろう? というも聞こえてきそうだが、学者の世界を貫いているのは利だ。どうしても、“学界から認められるだけの功績”が求められる。そこでは当然ながら、学界に額(ぬか)づくような姿勢も強いられるだろう。そういう世界とは距離を置いたところで、研鑚に次ぐ研鑚をしてもらいたいのだ。


 例えば、市井(しせい)の学究の一人に山中講一郎氏がいる。こうした人物が、俗世の仕事を離れて、研究に邁進(まいしん)すれば、どれほどの成果が上がるか計り知れない。現在、学会教学の保守に阻(はば)まれて、あまりにも評価されてない事実に、私は憤りすら覚える。


 僧侶は、本部職員とは異なり、志さえあれば誰もが門を叩ける。ここで、アスリートのような信仰者を育成し、ある場合には、学会に対しても見を突きつけるようなことがあっても、いいとう。


 真の僧侶の要件としては、妻帯禁止、寺院を持たない(借家住まい)、私有財産の禁止、位階の廃止などが考えられる。