「仏の同志」を最大に守り、讃えよ!

 晩年の大聖人は身延の山中で、粗衣粗食の生活を貫かれた。
 夏は草深く、冬は雪多く。
 そこに質素な庵室を構え、令法久住のために重要な法門を説き、弟子の薫育に全魂を注いでゆかれた。
 大聖人は訪れた門下を、それはそれは大切にされた。
 門下の求道の姿を喜ばれ、“一緒に食事でもしましょう”“お疲れでしょうから泊まっていきなさい”と、長旅の労をねぎらっていかれたのではないだろうか。
 食事といっても、特別な料理はなにもない。
 また、泊まるといっても、当時は蒲団(ふとん)などないし、薄っぺらなものを寝具として使っておられた。
 それらをご自身も用い、門下にも用してあげながら、“風邪などひかないように”等とを配ってくださったことが察せられるのである。
そこには、“自分は僧侶だから”“聖人だから”という権威ぶった態度など微塵もなかった。
 あくまでも、同じ人間として、同志として、門下を尊ばれた。
」といっても、人間とかけ離れた世界にいるのではない。
 ただ南無妙法蓮華経と唱える人々の胸中の肉団にこそ、“の生命”は涌現する。
 ゆえに、妙法を持った人が最も尊い。その人こそ「」である。
 この「の同志」を最大に守り、讃えよ!──ここに日蓮法の真髄があり、創価学会が進んできた道がある。
 だからこそ学会は、ここまで伸びた。世界に大発展したのである。
 権威主義の宗教は没落しかない。滅びるしかない。その実態は皆さんがご存じの通りである。
 学会は勝った! 大聖人直結で勝った!
創価学会、万歳!」と、高く叫びたいとうが、いかがだろうか。


【第55回本部幹部会 2005-12-08 東京牧口記会館


「あなたが本当に“楽しい活動”をしていた時のい出は?」
「今の自分があるのは、どのような先輩のおかげですか?」
たまには、こんなやり取りをしてはどうだろう? 絶対に盛り上がるから、やってごらんよ。


 時々、座談会の企画が行き詰まっているという話をにする。全く馬鹿げた話だ。企画なんぞ、いくらだってある。私なら、に10回、座談会があったって困らないよ(笑)。一人ひとりの話にを傾ければ、誰が何を求めているのか、どうすれば信歓喜を引き出せるか、直ぐわかるものだ。また、社会に目を向ければ、ニュースやテレビ番組など、いくらだってヒントはあるだろう。


 大体だな、「座談会を企画で盛り上げよう」という魂胆が気に入らないね(笑)。会合ってえのは、“長の一”で引っ張ってゆくのだ。極端な話、座談会の式次第なんて要らないのだ。担当幹部、あるいは地区部長を中に、皆で自由に語り合うのが本来の姿である。式次第を時間通りにこなして終わるのが座談会だとったら、大間違いだ。


 冒頭に提示したテーマの隠し味を教えて進ぜよう(笑)。これを、その場で言うと、多分、会場が凍り付いてしまうから要注(笑)。オブラートにくるんで、上手くもってくことだ。


「なぜ、今が楽しくないのか?」
「どうして、今、そのような先輩がいないのか?」


 盛り上がってない組織、結果が出ない組織に共通しているのは、一人ひとりが大切にされてないという現実だ。上から押し付けるように打ち出しを落とし、「あれをやれ、これをせよ」と、必ず命令主義に終始しているはずだ。


 戸田先生は、「この世から悲惨の二字をなくしたい」と言われたが、悲惨の二字に覆い尽くされている地区や部はないか?(笑)


 人間主義とは「民が主(あるじ)」であるという発に貫かれている。そうであれば、組織においては、一人ひとりが主体者であらねばならない。せっかく参加しているにも関わらず、発言することもなく、“聞く側”に追いやられている会員が山ほどいる。


 こんな組織にいれば、折伏なんてできるはずもない。「自分が大切にされている」という実がなければ、「学会は凄い!」と言い切ることができないからだ。


 世間においては貧富の差が拡大していると言われるが、学会においては信の地域差が拡大している。これを打開するには、一段飛びの指導体制をしっかりと確立することだ。区長は支部長を、本部長は地区部長を、支部長はブロック長を激励し抜き、ピカピカの人材に磨いてゆく。組織の形態がどのように変わろうとも、信血脈はタテ線に流れ通うことを銘記したい。


【指導は、NON氏の投稿によるもの】