幹部としての基本

 幹部になったからといって、その人の信も完璧になったとはいえない。役職は一方便ともいえる。信は一生涯のものである。新しい時代に相応した幹部として、常に成長していくためには、何といっても、自ら勉強し、毎日の題目を人より余計、唱えてゆくことである。



 形式や組織上の役職で、人間の価値を決定したり、大した信でもしているようにわせる幹部は小才子(こさいし)であり、要領主義であり、決して本当の信とはいえぬ。やがて行き詰まり、遂には生命力がおちてくる。誰よりも自分が題目をしっかりあげきって、まず実践してゆくことが、指導者としての第一義でなければならない。



 第二には、班員・地区員の中に、指導しても中々納得しない人がいるとう。その人たちを指導して、よく納得せしめることは折伏に通じる。指導せずに信が一人前になるなら、幹部は必要ない。それを自覚して、粘り強く、勇敢に指導の任にあたっていくことだ。わからせてあげたいという一が慈悲に通ずるともいえる。



 第三には、智を働かせることだ。ぎこちない態度で、判断が明瞭でない、自信のない指導者であってはいけない。随縁真如の智である。常識的にも、また、今まで自分が指導を受けてきた経験からも、こうすべきだと判断したら、その通りに確信をもって指導していくことである。そうすれば支部員の人たちが安する。


【『指導メモ』 1966-06-01発行】


 まだまだ、幹部が踏ん反り返っている。あからさまに威張っている幹部は少ないが、動いてないのが山ほどいる。勉強も全くしてない。を塞(ふさ)ぎたくなるような御書講義ばっかりだよ(笑)。これでは、最前線で真面目に戦う同志が可哀だ。


 会員への連絡・連れ出しを行っているのは、地区幹部とブロック幹部だ。ただ、ブロック幹部が機能していれば、地区幹部が動いてないという現実はありますな。支部幹部以上は、会合での伝達係が殆ど(笑)。


 幹部が、会員を法座に連れ出す労をしてないから、いつまで経っても会合が充実しないのだ。必死のいで一人の同志を誘ったにも関わらず、拍子抜けするような会合も多い。


 この指導にある通り、学会幹部であれば、慈悲と智と確信の体現者でなければいけない。自分の都合で、たまーに、ご機嫌伺いのために回る幹部は必要ない。


 最近のことだが、私はあるブロック幹部と話していて、猛烈な危機を抱いた。その人は、こう語った。


「地区協議会が一方的な打ち出しになっているのは、どこの組織でも普通のこと。でも、どんな悪い幹部であっても、長を守らなくてはならない。自分の宿命転換のためには、とにかく我慢することが必要だ。私は言われたことをやるだけで精一杯だ」


 つまり、完全にあきらめているのだ。革命の吹もなければ、随自意の信すらない。その姿は、組織に隷属するサラリーマンと化している。あまりにも長きにわたって、組織悪の犠牲となってきたがゆえに、信が歪(ゆが)められてしまったのだ。無気力な姿勢で活動をしていると、こうした結果になりがちだ。


“信で受け止める”とは我慢を強いられることではない。消極的な姿勢は、信仰の世界にあって自殺行為といえよう。非常識な幹部の振る舞いがあれば、道理を叫んで、打ち破ってゆくことも必要だ。


 正しい信とは、楽しい信だ。楽しくなけりゃ謗法だよ、と言いたい。