大慢のものは敵に随う

 来るべき21世紀の「精神の大航海時代」。私は学会こそ、その新世紀の王者であると確信している。
 その希望の出発に当たり、軌道を誤らぬため、大切な一点を本日は確認しておきたい。
 それは、「法」を根本に生きるか、自己中に生きるか、ということである。そして、何があっても、「法」を根本に生きる人こそ、真の勇者であるということである。


 よく「傲慢であってはならない」という。誰もがそうい、そう強調する。しかし、それでは実際には、どう“慢”を見極めるか。
 表面が謙譲そのものであっても、シェークスピアが言うように、その謙虚さが「野がその足場にする梯子(はしご)」(『ジュリアス・シーザー』)である場合もある。すなわち、悪い野を達成する足がかりとして、「謙虚な人物」との信用を得るための演技である。
 ――その場その場で、状況にうまくへつらう生き方。それが本当の「謙虚さ」なのかどうか。反対に、昂然と胸を張って、自己を貫く生き方。それは「高慢」と非されるべきなのかどうか。ここに重要な課題がある。


 大聖人は「撰時抄」に、こう仰せである。「大慢のものは敵に随う」(287頁)と。大慢のものは、いざという時には、敵にしたがってしまうとの御指南である。
状況が変化すると、それとともにが揺れる。が転ずる。それが不安定な「慢」の生命である。
 いつも、どちらにつこうか、どう動いた方が得か、そんなことばかり考えている。要するに「保身」の一である。
 自分を大事にし、よくしてくれるから、こっちについておこう。形勢が変わったから、今度はあっちへ行こう。そのように、落ち着きなく、常に自分の利害を中に“機”をうかがっている。「法」が根本ではなく、自分の「エゴ」が根本である。ここに慢の本質がある。
 これまでの退転者らも、皆「大慢のもの」であった。ゆえに、純粋な信の世界にいられなくなると、「敵に随う」姿を見せた。全て大聖人の仰せ通りの実相である。


 謙虚に「法」を中にする者の勇気、そして、傲慢に「自分」を中にする者の臆病――。
 ある人は言う。「佐渡御書」のあまりにも有な次の一節も、これら二つの正反対の生き方を対比されているとも拝せるのではないかと。そうとも言えるかも知れない。
「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人(かたうど)をなして智者を失はん時は師子王の如くなるをもてる者必ずになるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜むの強盛なるべしおごれる者は強敵に値ておそるる出来するなり」(957頁)と。
 御文の大をわかりやすく言えば、「悪王」すなわち悪しき“社会的権力”が、正法を破壊しようとする時、「邪法の僧」すなわち、よこしまな“宗教的権威”が味方し、連合軍をつくって、智者を亡き者にしようとする。智者とは正法を正しく弘め教えている者、すなわち日蓮大聖人であられる。
 その時に、師子王のようなを持って悪と戦う者は、必ずになる。例えば大聖人がそうであると。
 そして、「これは傲りから戦ったのではない。『正法を惜しむ』が強く盛んなためである。傲っている者は、強い敵にあえば、必ず恐れるが出てくる」と仰せである。


 この御文にお示しのごとく、権力と権威が連合軍を成して行う「迫害の構図」は、永遠に不変である。
 その時に、正法を惜しみ、広宣流布を第一義とするゆえに、敢然と「師子王」のようなで戦えるか否か。戦い抜けば必ず成できる。
 しかし、「法」を大切にわない傲慢の人は、臆病な「恐れる」が出てきて、逃げてしまうであろうと御指摘になっている。普段、威張っているような人間ほど、大事な時に一歩退(ひ)いてしまうものである。


 端的に結論すれば、こうも言えるかも知れない。すなわち、「傲慢」は「臆病」とセットになっている。そして、「謙虚さ」は「勇気」と表裏一体である。
 たとえ誰に傲慢とわれようと、「法」を中に生き、「広宣流布」を根本として生きる人は、常に変わらない。いざいという時は、いよいよ力が出る。
 反対に、「自分」を中にして、うまく泳いでいるだけの人は、正法の勢力が強く、自分に利用できる時には、そちらにつき、形勢が変わると敵方にさえついてしまう。


 こうした大聖人の教えを拝する時、最も偉い人とは誰か。それは何の地位も権威もなくとも、「正法」のため、「広宣流布」のために、現実に日夜行動している無地涌の友である。学会の同志である。私は深く強く、そう確信する。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 指導の白眉をなす部分である。正宗分といってもいいだろう。“創価の遺誡置文”と私は受け止めている。


 この指導さえ肚(はら)に入っていれば、インチキ幹部に騙(だま)されることはない。


 今、一番多いのは“小市民的詐欺師”、“創価の木っ端役人”である(笑)。役職を演じているだけの小人物。力不足を“謙虚さ”と“人のよさ”で一生懸命補っている。個人折伏と家庭指導が手な連中だ。やたら、「頑張りましょう」とは言うが、「頑張ります」とは絶対言わない(笑)。


 これ以外には、“キャラクター勝負型”というのがある。一見すると個的で魅力あふれる面々だ。ところがどっこい、この手の幹部は、信ではなく、持って生まれたキャラクターで勝負している。つまり、タレントだ。脚光を浴びることが大好きで、地道な闘争を最も手とするタイプである。


「慢」とは不幸の根本原因である五毒(貪・瞋・癡・慢・疑)の一つ。他人と比較する中でしか、自分の価値を見出せない生命のこと。「自分の方が上だ」という勝他のに突き動かされている境涯である。


 続いて、慢ランキングを(笑)。


 1位 祈ってない。
 2位 動いてない。(個人折伏、家庭指導)
 3位 勉強してない。
 4位 指導を受けない。
 5位 人の見を聞かない、求めない。


 我々はともすると、語気の強さや、分不相応な話をにして、「増上慢め」などとじることが多い。しかし、法華経方便品で「上慢」と言われた5000人のメンバーは、会合の途中で帰ってしまった人々のことである。これは、折伏されても学会員の話にを傾けない人や、指導されても頑(かたく)なにを閉ざす人といえよう。

 仮令(たとい)強言なれども人をたすくれば実語軟語なるべし、設ひ軟語なれども人を損ずるは妄語強言なり、当世学匠等の法門は軟語実語と人人は食したれども皆強言妄語なり、の本たる法華経に背く故なるべし、日蓮申す者は無間地獄に堕つべし禅宗真言宗も又謬(あやまり)の宗なりなんど申し候は強言とは食すとも実語軟語なるべし(890頁)


 大聖人はここで、強言と軟語を対照させ、妄語と実語を示されている。イメージや印象による判断を破折し、相手を幸せにするかどうかの一点を鋭く見抜くよう御指南されている。


“法華の慢”に関しては、「法華取要抄」で紹介した御文以外では、「顕未来記」にある。

 我が言は大慢に似たれども記を扶け如来の実語を顕さんが為なり(507頁)


「法が中」なのか、それとも「自分が中」なのか。微妙な違いである。本人ですら自覚してない場合も多い。


 大慢の人物は、いざとなれば敵に従う。そうであれば、徹して敵と戦い、民衆をしめる一切の勢力と果敢に戦う人が、「法中」のリーダーであり、真実の謙虚の人といえよう。上の言いなりになっているのは30点。