吉田松陰と門下 その一念の相違

 さて本日は、青年部の参加者も多い。そこで、吉田松陰とその門下について少々触れておきたい。
 ご承知のように吉田松陰は、満29歳で死刑に散った。まことに若い。青年である。この一人の青年が近代日本の幕を大きく開けた。古き時代は倒れた。驚くべき歴史である。
 その影響力の根源はどこにあったか。陰という人物の本質をどう見るか。当然、多くの論者がおり、様々な見方がある。また、諸君にも将来、考えていただきたい。本日は、彼の言葉から一点のみお話したい。


 陰はある時、門下に対しこう言った。「僕は忠義をする積(つも)り、諸友(しょゆう)は功をなす積り」と。
“自分は成否はともあれ、忠義の赤誠を貫くつもりである。それなのに諸君は、手柄を立てるつもりなのだ。見が違い、生き方が違う”と厳しく指弾したのである。
 すなわちこれは、陰が、門下の久坂玄瑞高杉晋作らを指しで批判し、「絶交」した時の言葉である。
 ――諸君には、私のがわからない。
 ――ああ、真の同志は、まことに少ない。
 陰は嘆いた。この師弟に何があったのか。


 時に、陰にとって最後の年、安政6年(1859年)1のことであった。この年の10に彼は刑死する(安政の大獄)。
 陰はこの時、萩の「野山獄(のやまごく)」にいた。獄中でも彼は革命への動きを止めようとしなかった。彼はいつでも計画し、どこでも実行に移そうとしていた。
 真の革命家は皆そうである。牢獄も彼のを縛ることはできない。
 陰はこれ以前から、次々と門下に策を授けた。
 長州(山口県)の藩主・毛利慶親(よしちか/後に敬親〈たかちか〉と改)を、参勤交代の途中、カゴを止め、京都で「討幕へ」と説得しようという計画もその一つである。“もう時代は変わった”と、大に行動させようとしたのである。
 また、水野土佐守(とさのかみ)や、老中・間部詮勝(まなべ あきかつ)の襲撃なども考えた。
 いは次々と浮かび巡る。頭脳は激しく回転する。陰のいは激しかった。
 ――常に生き急ぎ、死に急いでいたかのごとき陰。生きることにも急(せ)き、死にゆくことに急であった。
 そのは私にも痛いほどよくわかる。青春の日、私はい定めていた。「戸田先生のご存命中に死のう」と。
 私には妻も子もあった。しかし、後世に戸田門下生の範を示しておきたかった。こういう地涌の闘士がいたのか、末法広宣流布に殉じた若武者がいたのかと――。
 しかし、その戸田先生に見破られてしまった。
「大作、お前は死に急いでいる。それは困る。お前が死んだら、俺の後はどうなるのだ!」
 それで、私も生きた。生き抜く以外になくなった。生死を超えた師弟であった。厳粛にして美しき、一体の師弟の絆であった。何ものもその間に介在することはできなかった。


 獄中にあって、陰はジリジリした。
 いは逸(はや)れども、動くに動けない。誰か、我がとして走ってくれる者はいないか。
 ところが――。門下は、彼の計画にことごとく反対した。
 藩主のカゴを止める計画も、やろうという者は入江(いりえ)兄弟(入江杉蔵・野村和作)のみ。しかし、兄弟は若く、足軽の身分でもあり、大した仕事はできなかった。
 一般にも、ある程度、力のある人間は傲慢になり、ずるくなって、身を粉(こ)にしない。保身を図る。一方、純真な人間には力がないことが多い。こういう傾向があるようだ。
 力もあり、人間的にも労を惜しまぬ誠実さがある、そのような人物が多く出てこそ、大事は成る。


 激しいといえば、まことに激しい陰の情熱である。弟子達には理解できない。それどころか、師を諌(いさ)めさえした。
 高杉晋作久坂玄瑞、中谷正亮(なかたに しょうすけ)、その他の弟子達も皆、陰に背を向けた。江戸にいる彼らから手紙が届いた。
 ――先生のお気持ちはよくわかりますが、時期尚早であり、(老中襲撃など)成功の見込みは少なく、長州藩そのものを危機に追い込むことになりかねません。ここは我慢をして、時を待つべきです、との内容であった。
 門下の双璧といわれた久坂、高杉ですらこうである。
 別の計画も、実行に走ろうとした門下を、他の門下生が説得して、やめさせる始末であった。藩に計画を“密告”した門下すらいた。裏切りである。
 陰は嘆いた。私のを知る弟子は、どこにもいないのか――。陰は孤立し悩んだ。


 久坂、高杉らの手紙が届いた時、陰はある人に宛ててこう書いた。
「吾が輩皆に先駆て死んで見せたら觀(かんかん)して起(たつ)るものもあらん、夫れがなき程では何方(なんぼう)時を待ちたりとて時はこぬなり」(安政6年正11日、某宛書簡。山口県教育会編『吉田松陰全集』第8巻、大和書房刊。手紙の引用は以下、同書から。全て安政6年)
 ――僕が、皆に先駆けて死んで見せたら、気にじて立ち上がる者も出るかもしれない。そうする者がいないようでは、いくら時を待ったところで時はこない――と。
“時を待つ”のではない。言ってわからなければ、一命を捨てて“時をつくる”。その死は、決して門下生らが言うような「犬死に」ではない、と。
 結果的には、やがて陰の死が門下を立ち上がらせ、この時の彼の手紙の通りになった。


 更に陰は言う。
 革命の炎を燃え立たせたのは自分ではないか。その正義の炎に対抗する「逆焔(ぎゃくえん)」も自分が煽ったのだ。その僕の動きを止めようとは何という得違いか。
「且(か)つ今の逆焔は誰(た)れが是れを激(げき)したるぞ、吾が輩に非ずや。吾が輩なければ此の逆焔千年たつてもなし。吾が輩あれば此の逆焔はいつでもある。忠義と申すものは鬼の留守の間に茶にして呑むやうなものではなし。吾が輩屏(へいそく)すれば逆焔も屏せようが、吾が輩再び勃興すれば逆焔も再び勃興する、幾度も同様なり」(同書簡)
 ――その上、今、革命に対する炎は、一体誰が燃え立たせたのか。この僕ではないか。僕がいなければ、この炎は1000年たってもなかったことだろう。僕さえいれば、この炎はいつでもある。
 忠義というのは、「鬼のいない間に、(一入れて)茶を飲む」ようなものではない。
 僕がをひそめれば、炎もをひそめる(小さくなる)だろう。僕が再び立てば、炎も再び大きく燃え上がる。これは何度やっても同じことだ――。
「忠義と申すものは鬼の留守の間に茶にして呑むやうなものではなし」――何と痛烈な言葉であろうか。
 何やかやと理由をつけて動こうとせず、その実、危険を避けて我が身をかばおうとしている。そうした門下の政治的な要領のよい生き方と弱さを叱咤しているのである。
 何より、「革命の火種」としての陰の自負は大きかった。自分が立てば、反動も大きい。その通りだろう。当然ではないか。我こそ「革命の当体」なのだ。その僕を抑えて、時を待つなどといったところで、何年たっても何一つ変わらないぞと。
 炎を広げるには、「火種」を第一に守り抜いてゆく。これが当然過ぎるほど当然の道理である。その道理が見えないのかと、陰はあえて言わざるを得なかった。
 広宣流布も、「火種」を守り抜けば、いつでも燃え広がる。また、永遠に続いてゆく。「火種」を消せば、広布の炎も消える。この重大な一点を忘れてはならない。
 今、私は戸田先生から受け継いだ、正法広宣流布への確かな火種を世界に広げながら、更に次の時代のため、万年のために、真正の「革命の火種」を青年諸君の魂に伝えようとしている。


 この後に、冒頭に挙げた有な言葉が出てくる。
「江戸居(えどい)の諸友久坂・中谷・高杉なども皆僕と所見違ふなり。其の分れる所は僕は忠義をする積り、諸友は功をなす積り」(同書簡)と。
 ――江戸にいる諸友、久坂、中谷、高杉なども皆、僕と考えが違う。そのわかれるところは、僕は忠義をするつもりであり、諸友は功(手柄)をなすつもりなのだ――と。
 陰のいう「忠義」と「功」とは、言葉は古いが、現代的にはこうもいえよう。
 報酬を求めぬ「私なき赤誠」と、功にとらわれた「政治的方便」と。別のところで陰は、同じことを「真」とも表現している。
 師弟の違い。それは、大義に死する革命詩人と、功に生きる政治的人間との違いであった。
 ――たとえ我が身がどうなろうと、身を賭して正義を明らかにすべきではないか。それでこそ、“時”をつくり、時代を開いていける。今やらねば、いつやるのだ。このまま、おめおめと生き、火種を消してしまうのか。
 ――上手に「生きよう生きよう」と立ち回るのは「功の人」である。国家のためにと言いながら、生きて功を立て、革命の甘い汁を吸おうというのか。
 ――(高杉・久坂・中谷らは)皆、「ぬれ手で粟(あわ)をつかむ」つもりなのか――。
 陰の言葉は、いよいよ激しい。高杉よ、久坂よ、「時を待て」とは何たる言い草だ。皆、労もせず、「ぬれ手で粟」で、功のみを得ようというのか、と。


 客観的には、あるいは弟子達の状況判断にも無理からぬ面があったかもしれない。実際、そう論じる人もいる。
 また、「手柄」を立てることが悪いというのでもない。何の手柄も立てられないのでは仕方ないともいえるかもしれない。
 しかし、陰が言いたいのは、そんなことではなかった。自分と弟子達の「奥底の一の差」を嘆いたのである。
「革命のための人生」なのか。それとも、「人生のための革命利用」なのか。
 私どもでいえば、広宣流布のために自分を捧げるのか、自分のために広布を利用し、信と学会を利用するのか。この「一の差」は微妙である。ある味でタッチの差である。
 しかし、その結果は大きく異なる。広布のため、正法のために――との信の一は、諸天を大きく動かし、友の道を限りなく開いてゆく。
 自身の生命にも、三世永遠の福徳の軌道、確たる“レール”が築かれてゆく。
 反対に、口には広布を唱え、裏では堕ち、身が堕ちてしてまった人間もいる。立場や利、金銭に執着し、そのを「本」として、巧みに泳ぎつつ生きてゆく。これまでの退転者らがそうであった。
 また、人に認められよう、ほめられようとの一で行動する人もいる。しかも、自分では結構、頑張っているつもりでいる。自分で自分のエゴがわからない。


 陰がここで言うのも、弟子達が自覚していないの底の「臆病」と「野」を撃っているのである。
 弟子を知る者、師にしかず――。師匠には弟子が自分で気づかぬまでわかっている。反対に、師のを知る弟子はあまりに少ない。


 吉田兼好の『徒然草』に、「師の眼力」を書いた一文(第92段)がある。
「或人、弓射る事を習ふに、諸矢をたばさみて的に向ふ。師の云はく、『初の人、二つの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、始めの矢に等閑(なほざり)のあり。毎度、ただ、得失なく、この一矢(ひとや)に定むべしとへ』と云ふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんとはんや。懈怠(けだい)の、みづから知らずといへども、師これを知る。この戒め、万事にわたるべし」と。
 ――ある人が弓を習っていた。二本の矢を手にはさんで的に向かった。弓の師匠が言った。「初の人は、二本の矢を持ってはならない。二本目の矢を頼んで、(まだ一本あるとい)初めの矢をなおざりにするが出るからである。
 毎回、矢を射るたびに、当たり外れを気にせず、ただ、『この一矢で終わりにしよう』とえ」と。
 わずかに二本の矢である。師匠の前で、一本をおろそかにしようとうだろうか。しかし、怠(なま)けのは、自分では気づかなくても、師匠は知っているのである。この戒めは、万事に通じるものである――。
 更に兼好は言う。
「道を学する人、夕(ゆうべ)には(あした)あらん事をひ、には夕あらん事をひて、重ねてねんごろに修せんことを期す。況んや、一刹那の中において、懈怠のある事を知らんや。何ぞ、ただ今の一において、直ちにする事の甚だき」
 ――道を学ぶ人も、夕方には、明日のがあることをい、には夕方があることをって、その時には、再び真剣に修行しようと決する。
(それほどであるのだから)いわんや一瞬の間に、怠けがあることを知ることができようか。「ただ今の一」において、直ちになすべきことを実行することの何としいことか――。


 師匠は、弟子のがよくわかるものである。だからこそ、自分の怠けに気づかず、真剣に道を求めようとしない弟子のために、教え、励まして成長させようとする。
 師がいてこそ、求める道も正しく進み、究(きわ)めてゆくことができる。自身の成長も、人生の向上もある。
 ともあれ、人生も、青春も長いようで短い。「この一矢」「ただ今の一」をきちんと定めて、充実した価値ある一日一日を生きてゆかねばならない。そのために、どうしても師が必要である。このことを教えた『徒然草』の文である。


 さて、陰の門下は師から遠ざかった。「先生、おとなしくしていてください。今は、行動しないで、静かにしていてください」――彼らの根を一言でいえば、こうであった。
 そこには、師を危ない目に遭わせたくないという情もあったつもりかもしれない。しかし、その本質は、師のを知らず、自分達の賢(さか)しらな考えにとらわれていた臆病のでもあった。
「先生のお守(も)りに困っているんだ」とさえ、愚痴を言った門下もいる。これは手紙が残されている。
 陰は嘆いた。「勤王(きんのう)のきの字を吐きし初めより、小弟(しょうてい)索(もと)より一死をはめての事なり」(113日、兄杉梅太郎宛書簡)と。
「勤王」の「き」の字を口にして、革命を志した時から、既に一死を覚悟している。何を恐れることがあろうか。なのに、“状勢が厳しい”“今はその時ではない”などと門下達は言う。今更、何の「臆病論」(同書簡)なのだ。
 大義に死す者がいないとは、太平の世に柔弱(にゅうじゃく)になりきったのか。「日本もよくもよくも衰へたこと」(123日以後、入江杉蔵宛書簡)だ。情けない限りだ。「哀し哀し」(215日以前、某宛書簡)と、陰は血涙をしぼった。
 この時の陰のいは、「星落秋風五丈原」の歌の一節「成否を誰(た)れかあげつらふ 一死尽くしゝ身の誠」に通じるものがあろう。
 戸田先生はかつて、「五丈原」の歌を青年部に歌わされたが、この歌詞のところにくると、涙されるのが常であった。
“無責任な傍観者が何を言おうと、広宣流布は断じてなさねばならない。一体、誰がそれを成すのか”とのいが、歌詞と二重写しになって胸に迫ってこられたに違いない。
 しかし、戸田先生のもとには常に私がいた。私は、「広宣流布」の「こ」の字を口にした時から、は決めていた。死も覚悟の上だった。そして、戸田先生誓願実現のために走りに走った。
 戸田先生も、「大作がいるからな」と喜んでくださっていたし、私に一切を託された。一切を託せる弟子をもつことほど、師にとっての喜びはないし、幸せはない。
 広宣流布も、また大闘争であり、当然、戦術、戦略というべきものもある。また、冷徹な情報分析も絶対に必要である。しかし、より根本的なものは「師弟の道」である。その道を外れては、どんな作戦も価値を生まないことを知らねばならない。


 さて、陰は明治以後になると、いわゆる「勤王の志士」として、軍国主義などに利用されてきた歴史がある。
 しかし彼が、しみの果てに至った結論は、実は「民衆による革命」であった。「草莽崛起(そうもうくっき/民草、民衆の決起)」――これが陰の最後の考えであった。
 他人は信ずるに足らず、幕府も諸大も頼むに足りない。では、どうするのか。――民衆である。革命は民衆に拠(よ)るしかない――と。陰だけではない。歴史上、まがりなりにも革命を成し遂げた人物は、やはり民衆に焦点をあてていた。
草莽崛起、豈(あ)に他人の力を假(か)らんや。恐れながら、天も幕府・吾が藩も入らぬ、只(た)だ六尺の微躯(びく)が入用」(4頃、野村和作宛書簡)――もない民衆の決起、もはやそれしかない。どうして他人の力など借りようか。恐れながら廷もいらぬ、幕府もいらぬ、我が藩もいらぬ、ただこの六尺の身があればよい――と。
 もう誰も頼らない。我が身一身が炎と燃えれば、火は民草に燃え広がろう。権力者など当てにするのは一切やめだ――と。
 民衆は弱いようで強い。いざとなれば権力など、ものともしない。怖(お)じない。無の民衆の力こそ、革命の真の原動力である。広布という未聞の大もまた、無の庶民によって、逞しく切り開かれてきた。


 陰がこの「民衆決起」の考えに至った発端は、どこにあったか。それは、日蓮大聖人の戦いであった。彼は書いている。
「余が策の鼻を云ふが、日蓮鎌倉の盛時(せいじ)に當(あた)りて能く其の道天下に弘む。北條時頼、彼の髠(こん/髪をそられた罪人のこと。ここでは日蓮大聖人を指す)を制すること能(あた)はず。實行(じっこう)刻尊信すべし、爰(ここ)ぢや爰ぢや」(同書簡)
 ――この戦略をいついた発端は、日蓮(大聖人)は鎌倉幕府の勢いの盛んな時に、よくその教えを天下に広めた。(権力者である)執権の北条時頼でさえ、彼を制することができなかった。(この事実から考えついたのだ)「実行」と「刻」と。(しみつつ実践に生きることは)尊(たっと)ぶべきであり、信ずべきである。肝なのはここだ、ここだ――と。


 この「民衆決起論」は、やがて弟子達に受け継がれ、近代日本の扉をこじ開けるテコになる。
 いわば、日蓮大聖人の、権力をものともしない「民が子」(1332頁)としての戦いが、時代を超えて陰に飛び火し、明治維新の淵源をもつくっていったのである。


 こうした手紙を書いた約半年後、陰は江戸で処刑される。
 門下の衝撃は大きかった。「仇を報(むく)わでは」と皆、泣いた。そして、師の手紙や遺文を集めた。それぞれが、ばらばらに持っていたものを結集し、皆で学んだのである。
 そこで、初めて弟子達は陰の真を知った。「これが、我が師のであったのか」――そのの深さ、慈愛の大きさ。改めて自分達が師を知ることのあまりに少なかったことを悔いた。


 陰は遺言に言う。
「諸友蓋(けだ)し吾が志を知らん、為(た)めに我れを哀しむなかれ。我れを哀しむは我れを知るに如(し)かず。我れを知るは吾が志を張りて之れを大にするに如かざるなり」(1020日頃、「諸友に語(つ)ぐる書」)
 ――諸君は僕のを知っているであろう。(死にゆく)僕のことを悲しんではならない。僕の死を悲しむよりは、僕(の)を知ってくれる方がよい。僕(の)を知るということは、僕の志を受け継ぎ、更に大きく実現してくれることに他ならない――。


 師のを知った弟子達は、炎と燃えて立ち上がった。もはや彼らに迷いはない。革命の本格的な野火(のび)は、ここから広がり始めたのである。
 やがて、「民衆決起論」は、高杉晋作奇兵隊(農民まで含めた新軍隊)を実現させた。そればかりではない。
 陰の「幕府もいらぬ、藩もいらぬ」との到達点は、久坂玄瑞を通じて坂本竜馬に、そして、全国の志士達にと伝えられ、革命の爆発の発火点となっていった。
 孤独の中の陰の魂の叫びが、やがて、こだまにこだまを重ね、新しい時代を開いていったのである。


 やがて、久坂も高杉も師のを抱きしめながら、大義のために死んでいった。
 生き残り、革命の甘い汁を吸ったのは、伊藤博文山県有朋ら、一ランクも二ランクも下の人物であった。
 革命に殉じた人々の功績と労を、生き残った者が自らの保身や功のために利用する。広宣流布の歩みにあっては、こうしたことは絶対にあってはならない。
 妙法広布に生き、殉じた功労者が最大に称えられ、報われ、また、末永く顕彰されてゆく麗しい世界。これこそ、学会のあるべき姿であると、私は願してやまない。


 ともあれ、時の権力者と真っ向から戦う中で、もなき庶民をこの上なく愛され、大切にされた日蓮大聖人。その大聖人に自らの革命の偉大な模範を見出したのが吉田松陰であった。
 そして、“民衆”への限りない御自愛を注がれて戦われた大聖人のおのままに、広宣流布への民衆の大河を、広く深く築いているのが、私ども創価学会であると、重ねて申し上げておきたい。


【第11回関西総会 1989-10-12 関西文化会館


 無茶な発行の仕方をしてしまい、大変、恐縮している。424日にどうしても伝えたかったので、ご理解願いたい。私が最も大切にしている指導の一つ。


 弟子に裏切られた陰の境を、先生は余すところなくすくい取り、師匠と弟子の一の違いを鮮やかに描かれている。これは、「会長勇退」の歴史そのものだ。


 この指導は、会長勇退の報を聞いて真っ先に駆けつけた、藤原武さんを初めとする「関西の七勇士」に対する、先生の返礼とわれてならない。


 東京ではなかったところに、私は深い義をじるのだ。東京は3年で人口が入れ替わるといわれる。土着や愛郷に劣る分だけ、を揺らす傾向が強い。各区のプライドが、単なる地域エゴで終わってしまう姿も見受けられる。東京は広過ぎて一体に欠ける。


 この指導を誰よりも真剣に読まなければならないのは東京だ。


 昭和54年に負わされた傷に塩を擦り込みながら、本日より明年の4.24を目指したい。