“浅はかな有名人”になるな

 現在、このように広布の道が大きく開けてきた。その陰には、決して華やかな表舞台に出ることなく、黙々と活躍してきた無数の信の勇者がおられる。その反面、利にとらわれて、広布の第一線での労を避け、汗水を流すこともなく要領よく活動し、何かにつけて表に立っては自己を偉く見せようとする人もいる。
 そうした人々は、有になったり、何かの立場を得たりすることを功徳のように考え、組織において日夜、労を重ね、愚直なまでに地道に活躍をしている方々を睥睨(へいげい)し、見下していくものだ。そのような浅はかな“有人”が今までにもいたことはご存じの通りである。また、これからもあるかもしれない。
 しかし彼らは、いわゆる世渡りがうまいというべきであって、深き信と人生の完結への正しき軌道、行路に則(のっと)ってはいない。ある者は利の卑しき根であり、何よりも我慢偏執のである。
「我慢」とは、我尊しとおごる“慢”であり、「偏執」とは偏った考えに執着していくである。御書の仰せに従わず、広宣流布の正しき軌道から外れた我慢偏執のこそ、信の最大の敵である。
 表面のみ信ありげな姿の中途半端な生き方では、一時はよいように見えても、最後は成という生命の完結を得ることなく、しみの境涯になってゆくことを知っていただきたい。


【金会全国代表者会議 1986-02-22 創価学会本部】


 陰で戦う金会に対し、「我が使命に生きよ!」と指導されている。金会は、創価班や牙会よりも最高幹部と接する機会が多い。時には堕落した幹部の振る舞いを目の当たりにすることもあるだろう。信とは相容れない矛盾にしむこともあるだろう。しかし、任務上のことは組織で相談することもかなわない。その上、彼等は会員の目に留まることもない。


「その中で戦え!」と先生は言われているのだとう。「それが、私の歩んできた道でもある」と。


 信強盛とは、陰で闘争し抜く人の異である。されば、いかなる立場になろうとも“陰徳の人”でありたい。そしてまた、“陰徳の人”を讃えるリーダーでありたい。


 近頃じゃ、会館でしか活動してないクソ幹部がいるよ(笑)。