功徳論


 功徳に関する私見を述べ、問題提起としたい。

 蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財よりの財第一なり、此の御文を御覧あらんよりはの財をつませ給うべし(1173頁)


 学会員であれば、誰もが知る御聖訓の一つである。とは言うものの、活動報告でまかり通っているのは、「蔵の財」が大半だ(笑)。「の財」は評価の対象にすらなってない気がする(笑)。


 広布部員の季節になると決まったように、幹部という幹部が極めて特異な体験やエピソードを次々と紹介する。「不議な収入シリーズ」だ(笑)。特に婦人部の会合は、こんな話で持ち切りだ。


 いあまった老婦人が呟いた。「今、生活が本当に大変なの。だから、どうしても功徳が欲しいので、財務を頑張ろうとう」と。私も若い頃は似たような考えをもっていた。「万馬券より堅い」「生命保険より確実だ」などと後輩に指導しまくった(笑)。


 ちょっと冷静になって考えてみよう。ここで言う功徳って何だろう? それは「蔵の財」である。つまり、供養が“投資”になってしまっているのだ。私の場合は、「ギャンブル型供養」(笑)。


 これは、おかしい。大聖人に対して、海苔(のり)や餅、はたまた米や金銭を供養した弟子が、果たして功徳目当てで行っていたであろうか? 断じてそんなことはない。供養とは「喜捨」の精神で行うべきものだ。


「蔵の財」に執着するのが人の常である。それを「喜んで捨てる」こと自体が、貪欲(とんよく)から離れた行動であり、これ六根清浄である。

 功徳とは六根清浄の果報なり(762頁)


 志が欲に負けてしまえば、「餓鬼財務」と堕すことを戒め合いたい。


 また、闘争の目的が、功徳=蔵の財を目指すものとなれば、精神や人間革命を伴わない「強欲な動機」が原動力となってしまう。これでは、煩悩煩悩だ(笑)。


 信即生活であれば、無理をする必要はない。また、つまらぬ見栄を張れば、真が失われてしまう。自らの決のままに、自由に行うべきであろう。


 その上で、以下の供養の品々にいを馳せて頂きたい――


「白米一だ」(1561頁)、「十字六十枚清酒一筒薯蕷五十本柑子二十串柿一連」(1562頁)、「僧ぜん料米一たはら」(1563頁)、「はくまいひとふくろいも一だ」(1566頁)、「鵞目両ゆひ白米一駄芋一駄すりだうふ(摺豆腐)こんにやく柿一篭ゆ五十等云云」(1568頁)、「しら牙二石並びにいものかしら一だ」(1573頁)、「鵞目一貫文」(1574頁)、「聖人(すみざけ)ひとつつひさげ十か十字百あめひとをけ二升か柑子ひとこ串柿十くし」(1575頁)


 いずれも南条時光供養した品で、弘安2年の末から弘安4年の正にかけてのものである。弘安2年といえば時光は数えで21歳。熱原の法難に際し、日興上人の陣頭指揮のもと、師子奮迅の大闘争を展開した。これによって弾圧が始まり、重税を課せられることとなった。権力者による兵糧攻めといってよい。時光一家の生活はといえば、「身はのるべき馬なし妻子はひきかくべき衣なし」(1575頁)という有り様だった。その中でこれだけの供養をしているのだ。信の志なくしてできるものではない。


「師を守らずにおくものか!」――時光の轟くような叫びが、700年を経ても尚、私のを鞭打つ。