「破邪顕正」といっても「破邪」が先

 戸田先生知らずに対しては、それはそれは厳しかった。こう指導しておられた。
「ひたすら現在の世相を見るに、人の道たる知・報の者が、ごく稀(まれ)である。ここに、社会の乱れが生ずるのである」
を報ぜぬということは人間の特権を放棄し、禽獣(きんじゅう)に同ずることである」
 そして先生は、学会の大を踏みにじり、和合僧に弓を引く人間とは、徹底して戦えと厳命されたのである。
 これまでも、学会のおかげで社会的な地位を得ながら、傲慢になり、ついには反逆していった人間がいた。
 ゲーテは述べている。
「愚昧な、狭量の連中こそ、だれよりも威張りたがる」(生野幸吉訳「西東詩集」、『ゲーテ全集2』所収、潮出版社
 愚かな人間に限って、すぐに威張り散らし、人を見くだすものだ。こうした人間を絶対に許してはならない。
 イタリア・ルネサンスの大詩人アリオストは叙事詩で綴った。
「ああ、哀れなるかな、邪悪な輩に長きに渡り、唆(そそのか)されて、しみに引きずり込まれる者たちよ」(脇功訳『狂えるオルランド』(上)、古屋大学出版会)
 悪は放置すれば増長する。皆、だまされてしまう。悪人と戦わなければ、学会が破戒されてしまうのだ。
破邪顕正」といっても、あくまで「破邪」が先である。まず悪と戦い、悪を打ち破るのだ。
 それでこそ、「顕正」がある。悪を倒してこそ、初めて正義を明らかにし、宣揚することができるのである。
「破邪」が根本であり、その次が「顕正」だ。この方程式を、深く胸に刻んでいただきたい。
 戸田先生は、こうも言われていた。
「忘反逆の提婆達多は、一切の悪人を集めても、釈尊法には敵(かな)わないという証拠を残して、を受けて死んだ」
 日蓮大聖人の正統である創価学会に仇をなした提婆のごとき輩が、哀れな末路をたどっていることは、皆さまがご存じの通りだ。


埼玉池田研修道場でのスピーチ 2007-05-08】


 善悪は立場で決まるものではない。どうも、「学会幹部は善で、敵は悪」と単純に考えている人が多い。かような党派性は、私の最も嫌うところである。一つ一つの行為を吟味せずして、レッテルを貼るようになれば、自分の頭でものを考えなくなる。


 先日、あるメンバーから電話があり、「うるさい先輩方がいなくなった途端、傲慢になったリーダーがいる。自分が権力を持った途端に豹変した」と語っていた。私に言わせれば、そうした生命の傾向を見抜けなかった先輩の責任だよ。


 傲慢な質は隠すことができない。必ず、厳しい訓練を避ける。役職が目的と化しているために、自分を鍛えようとする姿勢がないのだ。突っ込んだ話をして、どんどん追い込んでゆくと、黙り込むのが常だ。


“会員に奉仕するための役職”である。そこを履き違えているのが山ほどいるよ。

 法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり(1169頁)


「道理は権力に勝つ」と大聖人は御指南されている。これだけデタラメな幹部が増えたのは、会員が道理を見失っている証拠だとう。徹底した御書拝読、スピーチ研鑚で、後輩に“道理”を叩き込め。学会は“信の団体”である。信で勝負せよ。