「謙虚な心」には余裕が、「傲れる心」には焦りが

 虚栄や策、慢を捨てた「謙虚」。これほど強いものはない。最終的に頼りになるものはない。
謙虚」には余裕が生まれる。「傲れる」には焦りのみが募る。
「余裕の人」は自分を客観視し、そこから知恵が生まれる。信頼と安を育む。ゆえに勢いが出る。「焦りの人」は正確に物事を見ることができない。愚痴と不安を育て、周囲には迷いばかりが増す。ついには自分をも見失ってしまう。自分が見えなくなった人に、本来の自分の力も、他人の力も引き出せないのは当然である。
 ありのままの自分となって、「十のものを十だけ出し切っていく」。その必死の「一人」に信頼は集まり、強固な結束が生まれる。そして、不敗の「勝利チーム」が形成されてゆく。
 だが、持てる「十を出し切る」ことは決して容易ではない。人間はどこかで力を抜き、余力を残しているものだ。それこそ命懸けの必死の戦いでなければ、本当の爆発力は出てこない。


 ある味で、信とは“手抜き”をしないことである。誰が見ていようといまいと、また、誰が何を言おうと、自分は自分らしく全力を尽くしてゆく。そこに信仰者の強さがある。今日の学会の発展も、全て「懸命な日々」の結実であり、勝利であった。
 私もこれまで「まず自ら動く」「ベストを尽くす」「寸暇を惜しんで働く」――率先してこの姿勢に徹してきたつもりである。
 策や要領のみの人生は、結局は行き詰まり、自ら墓穴に入るであろう。人生と一を真っ直ぐに広布に向け、ひたすら行動してゆくところに、最高の充実と満足がある。限りなく力が湧いてくる。
 ともあれ、本当の「自分」を発揮している人は美しい。輝いている。また、着実に勝利の人生を築いている。


【京都平和講堂落成祝賀 京都記幹部会 1989-10-18 京都平和講堂】


「傲慢」とは役職やキャリアなど、立場に固執する命のこと。「俺が上で、お前が下だ」という姿勢である。「謙虚」とは、池田門下生として同じ地平に立ち、スクラムを組む姿と言えようか。


 後輩からの相談を受けて、馬鹿の一つ覚えみたいに「とにかく、頑張ろう」「とにかく、お題目よ」と語る愚将が多い。「とにかく」の一言が、相手の状況を完全に無視している。悩みを解決しようとって先輩を訪ねたにも関わらず、悩みが増える羽目になることも珍しくない(笑)。


 幹部だからという理由だけで指導を受けると失敗するから気をつけた方がいいよ(笑)。今は、人を選ぶべきだ。では、どういう幹部が望ましいか? それは、「指導を受けている幹部」である。労している人は必ず先輩に体当たりで指導を受けている。だからこそ、人のがわかるのだ。トントン拍子で幹部になっている官僚は、往々にしてが浅い。


謙虚」といっても、相手の話にを傾けることに尽きる。学会幹部の多くは、病的なほど人の話が聞けない。