少女パレアナは何にでも喜びを見出した 

 パレアナは、どんな人に会っても、何かしら「嬉しいこと」「喜べること」を見つけた。誰だって、自分に会ってから喜んでいる相手に対し、悪い気持ちを持ち続けることはしい。だから皆、いつしかパレアナの味方になった。
 は不議である。は微妙である。こちらが悪い情を抱いていると、たいていは相手にもそれが伝わっている。こちらが笑顔のいで接すれば、相手にも微笑みのが宿る。こちらが粘り強く手を差し伸ばせば、相手もいつしか手を差し伸ばす――相手はいわば、自分にとって「鏡」のような存在なのである。
 パレアナは、自分がまずから「喜ぶ」ことで、「鏡」である相手からも、少しずつ「喜び」を引き出していった。
 また、どんな人に会っても“素晴らしい人だ”とまず決めて、その“信頼”を率直に表現した。だから、多くの人が何とかその信頼に応えようと動いた。
“あの少女のようになりたい”――見えない「の力用」が人々のを揺さぶり、大きく開花させていったのである。
 ――パレアナの物語は、アメリカ中に広まった。そして、ある辞書には「パレアナ」のが「喜び」を味する言葉(普通詞)といして載せられるまでに定着した。


 パレアナのように、「何にでも喜びを見出す」ことは、呑気(のんき)な気休めではない。「義務」や「愚痴」で日々を灰色におおうよりも、よほど創造的な「強さ」が要求される。
 また、「何にでも喜びを見出す」――これは、一歩間違えれば、単なる現状肯定の、お人よしになりかねない。
 それはそれとして、同じ一生であるならば、喜んで生きた方が得である。同じ行動をするのなら、楽しんで行動した方が価値的である。
 まして、法では「一の妙用」と説く。また、「一念随喜」(随喜とは、随順して歓喜すること)」と説き、「随喜功徳」(随喜の一念に広大な功徳が備わる)と教える。
 にあふれる喜びの光――そこに信仰の証明があり、境涯のバロメーターもある。
 ともあれ、「生き生きと生きよ」――自身のため、愛する家族のため、友のために、私はそう申し上げたい。その人には、悩みをも希望へと変えゆく勇気が湧く。のみならず、多くの人々のに希望の灯(ひ)をともしてゆくことができる。その味でどうか、厳しい現実の生活も、豊かなで楽しみながら、強くまた強く、価値ある人生を創っていっていただきたい。


【第9回全国婦人部幹部会 1989-11-29 創価文化会館


 青年部のメンバーは、以下の御書を全部、大きな拝読した上で、『少女パレアナ』(エレナ・ポーター)を読んで頂きたい。ま、人間革命が30%ほど進むことだろう。


少女パレアナ (角川文庫クラシックス) パレアナの青春 (角川文庫)