「反キリスト者」ニーチェ

 私はキリスト教を断罪したが、このことで私はそれと親近な一つの宗教に、信徒の数から言えばかえって優勢なそれ、すなわち教に、不正を犯すことをのぞんではいなかった。両者はともにニヒリズム的宗教に属しているが――いずれもデカダンス宗教であるが――、両者は最もいちじるしい仕方でたがいに異なっている。両社が現今比較されうるということ、このことに対してキリスト教の批判者はインド学者に深く謝しなければならない。――教は、キリスト教より100倍も現実主義的である、――教は、客観的に冷静に問題を設定するという遺産を体内にもっており、何百年とつづいた哲学運動ののちにあらわれた、教があらわれたときには、「神」という概はすでに除去されてしまっていた。教は、歴史が私たちに示す唯一の本来的に実証主義的な宗教である。その認識論(一つの厳密な現象主義――)においてもやはりそうである。教はもはや「罪に対する闘争」ということを口にせず、現実の権利を全面的にみとめながら、「に対する闘争」を主張する。教は――これこそそれをキリスト教から深く分かつのだが――道徳的概自己欺瞞をすでにおのれの背後におきざりにしている。教は、私の用語で言えば、善悪の彼岸に立っている。教がそれにもとづき、注視をおこたらない二つの生理学的事実は、第一にはの過大な敏さであって、これは痛を受けとる洗練された能力としてあらわれるものであり、第二には過度の精神化、概や論理的手続きのうちであまりにも長く生きることであって、このことの影響で人格的本能は損傷をうけて「非人格的なもの」に有利となってしまったのである(――この両者とも、少なくとも私の読者のいく人かは、「客観的な者たち」は、私自身と同様、経験から知るようになる状態である)。こうした生理学的条件にもとづいて或る抑鬱が発生した。これに対して陀は衛生学的な処置をとるのである。陀はその対策として、戸外生活を、漂泊生活を適用する。飲食の節制と選択、すべての酒類に対する用、同じく、癇癪をおこさせ、血をわかせるすべての欲情に対する用、おのれに対しても他人に対しても気遣いしないことなど。陀は、休をあたえるか快活ならしめるかのを要求する――彼は、これ以外のの悪習をやめさせる手段を発明する。彼は、善を、善をもつことを、健康を促進せしめるものと解している。祈祷は、禁欲と同じく排斥されている。なんらの断言命令も、総じてなんらの強制も、僧団内においてすらない(――人はふたたび還俗することができるのである――)。



ニーチェ全集〈14〉 偶像の黄昏 反キリスト者