「広宣流布」は単なる“スローガン”ではない

広宣流布」は、単なる“スローガン”ではない。言葉として、いくら高く掲げても味はない。具体的に一歩一歩、実現していかなければ、大聖人が開かれた無上の幸福の「大道」を後世に広げていくことはできない。それではあまりに、大聖人に申しわけない。このことは戸田先生も、厳しくおっしゃっていた。
 そして広宣流布は、この現実世界を舞台としての、軍との熾烈な闘争の連続である。正法の勢いが弱まれば、それだけの軍勢が勢いづいてしまう。
 ゆえに、現実のあらゆる局面において、「法は勝負」との証を示していかねばならない。闘争に闘争を重ね、勝ち抜いていく以外にない。個人幸福も社会の繁栄も、着実な広宣流布の発展も、その上にしか築かれていかないからだ。
 私どもにとっても本年は、ますます「正」と「邪」が明確になっていくに違いない。大聖人門下の誇りと確信に燃えて、誉れの広布の戦いに勇気凛々と臨み、堂々と勝利の栄冠を勝ち取ってまいりたい。


【第25回本部幹部会 1990-01-18 創価文化会館


 1990年(平成2年)のテーマは「原点・求道の年」だった。電話回線を使った音のみの“同時中継”から、現在の“衛星放映”となったのは前年の824日からのこと。「夢のような時代となった」というのが率直な実であった。


 先生が示した通り、年末の虚を衝くような形で日顕は書類1枚の郵送をもって総講頭を罷免(1990年1227日)。第二次宗門問題が勃発した。


 生物の真価は生存競争の中で発揮される。空間軸では弱肉強食のサバイバルが繰り広げられ、時間軸では淘汰という作用が働く。動物としては貧弱なヒトが淘汰に打ち勝った事実は、力よりも智が大切であることを示唆しているとう。情報化社会ともなれば、頭脳戦の様相を呈する。


「何が広宣流布だ。君に広布を語る資格があるのか!」――26歳の私は先生から叱責されたようないがした。前の年も、その前の年も、部としては総区で1位の成果を出していた。総区ったってその辺の総区じゃないからね。天下の江東区だよ。その驕り、甘え、油断を木っ端微塵にされた指導だった。


 当時の分区男子部長は鬼みたいに恐ろしい人だった。暴走族全盛期にあって、東京下町を席巻したグループの“頭”を張ってた人物だ。拳(こぶし)ひとつで生存競争を勝ち抜くタイプ(笑)。この先輩は私の顔を見るたびに、「小野、この間の先生の指導についてどうった?」と訊(たず)ねた。そして、必ず「俺はこうじた――」と。先輩も後輩も真剣勝負そのものだった。


 あの頃は渇した者が水を欲するが如く、先生の指導を求めた。少しでも手を抜けば、先輩から気合いを入れられた。先生は若き弟子に“哲学の芯”を打ち込まれた。そして我々は日顕宗に勝ったのだ。


 公明党が与党となってからというもの、学会員は“守り”に立たされる局面が増えている。なぜなら、勝利の目的が政権維持となっているからだ。そんな姿勢で広宣流布はできない。保守という姿勢は必ず腐敗する。学会は永久に革命の担い手でなければならない。