経王殿御返事

 いかなる処にて遊びたはふるともつつがあるべからず遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし(1124頁)


【通解】どのような場所で遊び戯(たわむ)れていても、何の差し障りもないでしょう。自在に行動して何ものをも怖れない師子王のような境涯になるのです。


 尚、「つつが(恙)」という言葉は、現代でも「つつがなく」と手紙などで使われている。で、「つつが」は「病気などの災。わずらい」(大辞林)で、「つつがなく」は「異常がない。無事である」(大辞林)という味になる。


 鯖君が発行しているメールマガジン毎日御書を!」の本日分でこの御聖訓が紹介されていた。いやあ驚いたよ。実は私も昨日からこの御文を索していたのだ。ここのところ研鑚板(現在の通称は「斧板」となっている)でも、妙に呼吸が合っていた。そこでエールを送る味も込めて綴ることにしよう。

識と無


 見よ、この角度を。誰も予していなかったことだろう。ざまあみろだ。星飛雄馬が投げる大リーグボールだって、これほどの変化はしていないはずだ。では早速、「識と無識」という命題でこの御書を読み解いてみよう。


識」は普段あまり識されていない(笑)。だから、「君は識が低いよ」とか、「気絶しそうになった(=識が遠のいた)」とか、「ボーーーッとしてんじゃねえぞ」とか、「お前、何も考えていないだろ?」といった使い方で「識」を喚起させる。


 例えば、今この文章を読みながら、「これは日本語である」とか、「中国から輸入された漢字+漢字をくずした平仮で構成されているテキストである」などと考える人はいない。

 車でいえば、教習所にいたときには、クラッチを踏んでギアをローに入れて……、と、順番に逐次的に学びます。
 けれども、実際の運転はこれでは危ないのです。同時に様々なことをしなくてはなりません。あるとき、それができるようになりますが、それは無識化されるからです。
 識というのは気がつくことだと書きましたが、今気がついているところはひとつしかフォーカスを持てないのです。無識にすれば、臓と肺が勝手に同時に動きます。
 同時に二つのことをするのはすごく大変です。けれどもそれは、車の運転と同じで慣れです。何度もやっていると、いつの間にかその作が無識化されるようになってくるのです。
 無識化された瞬間に、超並列に一気に変わります。


【『心の操縦術 真実のリーダーとマインドオペレーション苫米地英人


 あるいはゲシュタルト理学で説かれている「図と地」もそうだ。「ルビンの杯」という錯視画像を一度は見たことがあるだろう。識された部分が「図」となって浮かび上がり、識されない部分は「地」となって後方に退けられる。


 前置きはまだまだ続く。私が投げようとしている球は、スローボールと見せかけて、手元で160kmに伸びるのだ。


 科学の世界でも、識という存在がなぜ存在し、どのようなものであるかは今のところ全くわかっていない。本来であれば、「世界七不議」の筆頭に君臨すべき謎といってよい。ただ、識がどのように機能しているかは少しずつわかってきた。


 ドイツの神経生理学者ハンス・H・コルンフーバーと助手のリューダー・デーッケがEEG(脳波記録法)によって、識発生のメカニズムを検証した。すると驚くべき事実が明らかとなった。手や足を動かすといった単純な動作に先立って、脳内に活動が見られたのだ。この時間の平均値は0.8秒。二人はこれを「準備電位」とづけた。つまり、識する前から脳は動き始めているのだ。


 これに対して疑問を呈したのがアメリカの神経生理学者ベンジャミン・リベットだった。だが、リベットが行った実験はコルンフーバーの発見を補強する結果となった。ここから新しいテーマが浮上する。「果たして人間に自由志はあるのか?」。

 はた目には、ラウドルップ(※デンマークのサッカー選手)が頭の中でやっている計算は複雑なものとしかえない。だが、それが瞬時に行なわれていることもわかる。そこで、「プレー中、選手はゲーム運びを識できるのだろうか」という疑問が湧く。ラウドルップの答えは、単純明快なノーだった。「プレーあるのみだ、それも、瞬間的な!」
 サッカー選手はプレーしているとき、識を働かせていない。だが、サッカーという競技に多少なりとも通じている人なら、ラウドルップのような選手が絶妙なパスをするとき、すばらしい独創的な精神作用が頭の中で起きていないなどと言うはずがない。高度な計算がいくつも行なわれるのだが、識には上らないのだ。
 だが稀に、状況をよく考える時間がある場合がある。そしてそんなとき、失敗が起こるのだ。


【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想トール・ノーレットランダーシュ


 するってえと、識された「私」なんて代物は、生命全体から見ると「氷山の一角」に過ぎない。我々の生活、人生はその殆どが無識のまま進行しているのだ。


 疲れてきた。すまんが、スペック不足で私の脳味噌がフリーズしそうだ。いかん、御書の話だった。


 サッカーの例えからもわかるように、遊びというのはその最たるものであろう。「遊びに行く」時は識されているが、「遊んでいる最中」は無識だ。


 い出を振り返ってみよう。楽しいい出ほど詳細を覚えていないはずだ。輝かしい成果を出した歴史ですら、「あの時は面白かったな」以上である。一方、辛く悲しいい出ほど事細かに記憶されている。憎悪の対象となる人物や、嫌悪すべき出来事が鮮やかに甦る。そう。これは識されていたからだ。


 識する前から脳が動き始めていることは、脳が腹話術師で、識が人形であることを示唆している。我々をならしめているものが無識であると仮定すれば、無識は何によって形成されているのか? それは「経験」であると私は考えている。つまり、第八識(阿頼耶識〈あらやしき〉)だ。「自在」とは無識なり。

 されば経文には一人一日の中に八億四千あり(471頁)

 我等衆生の一日一夜に作す所の罪八億四千慮を起す(823頁)


 これらの御書も無識をカバーしたものと考えられる。御書に「識」という言葉はない。これに近いものは「心得」というキーワードか。


 この御書を私見で論じれば、「無識レベルをも師子王と鍛え上げよ」という味になる。

 秘密の奥蔵を発(ひら)く之を称して妙と為す(400、414、943頁)


「秘密の奥蔵」=無識と考えれば、得がゆく。


ユーザーイリュージョン―意識という幻想