報恩抄を思索する その一

 されども経文分明にありしかば叡山の大乗戒壇すでに立てさせ給いぬ、されば内証は同じけれども法の流布は迦葉阿難よりも馬鳴竜樹等はすぐれ馬鳴等よりも天台はすぐれ天台よりも伝教は超えさせ給いたり、世末になれば人の智はあさく教はふかくなる事なり、例せば軽病は凡薬重病には仙薬弱人には強きかたうど有りて扶くるこれなり。(328頁)


 この御文を理解するために、立川武蔵著『最澄と空海 日本仏教思想の誕生』という本を読んでいる。


 最澄伝教大師)は778〜822年、空海弘法大師)は774〜835年の人。年は4歳ほど若いが最澄の方がは知られていた。804年の7、この両遣唐使の留学僧として唐の国に渡っている。空海は全く無の僧であった。最澄は天台教学を、そして空海密教を学んだ。


 ところが、だ。実際は最澄密教を学んでいて、空海よりも早く帰国したために、密教を日本に伝えたのは何と最澄だった。最澄はその後、812年(弘仁3年)になると、本格的に密教を学んだ空海から高雄山寺で灌頂を受けている。早い話が弟子入りしたわけ。ったく、驚き桃の木山椒の木だよな。


 ただし当時、どれほど宗派識があったか不明である。確実なのは両者が密教という基盤を持っていたことだ。これじゃあ、慈覚・智証が真言に傾くのも当然だろう。


 で、最澄は晩年になると具足戒(比丘は250戒、比丘尼は384戒)を破棄(818年)。比叡山においては大乗戒をもって僧侶となる。翌819年、大乗戒壇建立の申請を廷に提出するや否や、南都の僧達が猛反発する。なぜなら、「戒律否定」を廷が認める格好となってしまうためだ。最澄は822年626日に逝去。没後、7日目にして大乗戒壇設立が認められた。


 私が引っ掛かっているのは、「内証は同じ」と「世末になれば人の智はあさく教はふかくなる」である。この御文では「法の流布における勝劣=教の深さ」となっているため、教=とは考えられなくなってしまうのだ。また、国や時代によって流布する内容(=教え、経典)が異なっていることも見過ごせない。


「大聖人様、じゃあ一体教って何なのさ?」ってことになる。


 この続きはまた明日(笑)。こういう議論は慎重に行う必要があるのだよ。