社会的成功


 功徳が社会的成功を味するようになってから、組織の序列は信以外の何ものかに変わった。それ以降、成果主義とは組織内における社会的成功を味するようになった。私はこれを“法の資本主義化”とづける。矮小化された教義はわかりやすいが、法の豊かな精神を奪い去った。そして、数字だけが求められた。人材は皆、広布の営マンと化した。人間よりも力が幅を利かせた。組織は人柄のいいのび太よりも、結果を出せるジャイアンを求めた。また、わしい成果を出せない組織ドラえもんを求めた。ポケットから出てくるのは啓蒙用紙だ(ニヤリ)。


 真の功徳は言葉にならない。これを「妙」と称する。功徳とは競うべき質のものではないのだ。御書に云く、「一生はゆめの上明日をごせずいかなる乞食にはなるとも法華経にきずをつけ給うべからず」(1163頁)と。大聖人は「乞食(こつじき)」になることを容認されている。「乞食」になることが謗法とは一言もいっていないのだ。つまり、乞食=法華経に傷をつける、という構図になっていない。であるがゆえに、たとえホームレスになったとしても、功徳を引き出すことは可能である。ま、聖教新聞の記事にはならないだろうけどね(笑)。本当の功徳は、自分と御本尊だけが知ればいい世界だ。