人間はどこにいるんだろう

 彼(※スタインベック)は旅立つ前、友人の政治記者からこんな期待を寄せられていた。その記者は、大統領の候補を民間人の中に探し求めていた。
 記者いわく、「今度の旅行で根のある人間に会ったら、場所をおぼえてきてもらいたいね。行って会ってみたいんだ。いまは臆病者とご都合主義者にしかお目にかかれないからね」。
 そして、「人間が必要だからね。人間はどこにいるんだろう」「2〜3人でもいいから探し出してきてもらいたいね」と。
 また、「民衆がどこへいったか、探してきてもらいたい」とも記者は言った。アメリカ独立宣言で言っている「民衆」、リンカーン大統領が言った「民衆」――それらは一体、どこにいるのか、と。
 記者の言葉には、アメリカの理と現状との間の大きなギャップ(へだたり)を前にしたしみが込められていた。
 彼が“根のある”本物の「人間」と呼ぶのは、たとえ多くの反対にあおうとも、自分の見を貫くことを恐れない人間のことであった。
 そして、本物の「民衆」とは、特権的な権威や専制を許さない、“歴史の主役”として戦う民衆のことであったに違いない。


【第26回本部幹部会 1990-02-07 創価文化会館


 ウーム。Googleのサイト内検索の結果が文字化けしてしまう。「創価系サイト検索」も全滅っぽい。を決して書こうとった途端、このザマだ。ま、直しようがないんで放っておこう。きっと、時間が解決してくれることを信じて……。


 さあ書くぞ。2008年10月26日以来だ。実はこの指導で止まっていたのには理由がある。「記者の発言」の出典を確認しようとったのだ。調べたところ、『チャーリーとの旅』は2007年に新訳(竹内真訳)が出ていた(「厳格な牧師」)。だが、私はこの訳が気に入らなかった。そこで今、大前正臣訳を読んでいる最中だ。ひょっとすると、『アメリカとアメリカ人 文明論的エッセイ』(サイマル出版会1969年/平凡社2002年)あたりかも知れない。見つからなければ、こちらも読む予定だ。


 実は、スタインベックが愛犬のチャーリー(プードル)とアメリカ大陸を旅していた頃、先生が訪米されていた。文豪と詩人は期せずしていて接近していた。


 それにしても記者の言葉は振るっている。社会というものは分によって成り立っており、ヒエラルキーを構成する。大衆はいつの時代も抑圧され、搾取(さくしゅ)されてきた。ヒエラルキー社会においては、権力者に従うことが得となる。この点ではチンパンジー社会と変わりがない。


 社会的な圧力がのしかかると、大衆の力は弱まってゆく。負荷を掛け続けられたバネが弾を失うように。大衆は時々い出したように怨嗟(えんさ)のを漏らすことはあっても、羊の如く群れに付き従う。


 学会は民衆の団体である。しかし、「たとえ多くの反対にあおうとも、自分の見を貫くことを恐れない人間」がいるだろうか? いないね。だって見たことないもん。「多くの反対」どころか、2〜3人の婦人部幹部から反対されただけで見を引っ込めるようなのが多いね。田舎になると、幹部に見しただけで破和合僧と考える者までいる。組織権威主義はセットになっている。それがいかなる組織であっても。


 我々は先生の指導をそのまま実践できなくなっている。例えば、地域活のキーワードとして「よそ者と馬鹿者と若者」がクローズアップされたことがあった。では、この三者があなたの組織で上記の指導を実践したとしよう。一体どうなるであろうか? まず間違いなく村八分にされることだろう(笑)。学会組織の原則は「郷に入っては郷に従え」という雰囲気になっている。で、挙げ句の果てに「を積んではに引きずられる」始末だ。


 会合では本音を言うことも許されない。美辞麗句が飛び交い、皆が皆作り笑顔で相槌を打っている。数字だけが目立つ活動報告、決まり文句を繰り返すだけの幹部指導、師弟という言葉はあっても魂はどこにもない――誰がそんな学会にしてしまったのか?


 それは――あなたと私である。戸田先生池田先生とが命懸けで築いた民衆を、どうでもいいプレハブ小屋にした犯人は我々弟子なのだ。


 今日は「創価学会後継者の日」。嵐が吹き荒れる昭和51年(1976年)のこの日、関西戸田記講堂で行われた鳳雛会・未来部の記勤行会で制定された。私は中学1年生だった。この世代(戸田先生の逝去後に生まれたメンバー)が、真の池田門下生として立ち上がる以外に道はない。