父から渡されたバトン


 私の父は、組織から見放された人々の面倒を見続けた。全部で7〜8人ほど。その中にはタテ線時代の先輩もいたように記憶している。いずれもの病を抱えた人だ。この内2〜3人の方には葬式を出す約束までしていた。役所から父に連絡が入る手筈(てはず)まで整えていたというから抜かりがない。


 気になったので母に尋ねた。母は詳しいことを知らなかった。あるお宅へは一緒に連れ立って訪問したこともあったが、外で待つよう父から言われたとのことだった。その上、父が支部長時代に世話した人々が大半なので、今となっては住所が広範囲に及んでいる。父の訃報を報(しら)せるとなれば、直接訪ねるしかない。


 年賀状を見たところ、比較的近いところに住んでいる方がいた。その一風変わった前が私の記憶に残っていた。「確か、あの人だな……」と記憶を辿った。私よりも4〜5歳年上で、男子部時代に何度か会った覚えがあった。


 帰京する前の日の電話をした。私は小野の長男であることを告げ、「確か男子部時代に何度かお会いしたとうんですよ。ま、会えばわかるといますから」と言って、訪問することにした。か細いに聞き覚えがあった。


 前もって下見に行っていたので家の場所はわかっていた。「盗んできました」と言わんばかりのサビだらけの自転車にまたがって、私は風を切った。


 ピンポンを鳴らすと直ぐにドアが開いた。そこには全く知らないオジサンがいた。ただの一度も会ったことのない方だった。ま、そんなことでビビるような訓練は受けてない。にこやかに挨拶を交わし、家へ入れてもらった。


 既に父の件は知っていた。「生前、父がお世話になりました」と私は頭を下げた。「と、と、とんでもないですよ。お世話になったのは自分の方です」と言われた。「そうじゃありません」と私は控え目に語った。以下がその内容――


 組織には役職という上下関係がある以上、指導する側と指導される側が存在する。では、指導する側が偉いのかといえば、そんなことはない。なぜなら、指導を求める人がいればこそ、指導者は法を説けるのだから。まずがいて、それから民衆が出てくるわけではない。衆生しみに応じてが現れるのだ。これを感応妙という。諸法実相抄によれば、悩める衆生がいるおかげでとしての役目を果たせるのだ。相対して互いのに頭(こうべ)を下げて尊敬するところに信頼と団結が生まれる。だから私の父は、あなたのおかげで幹部としての使命を果たすことができたんですよ。


 聞けば、倒れる1週間ほど前にも父が訪れたという。「微動だにしない自分の中に本当の幸せがあるんだよ」と語っていたそうだ。これを私がもう少し深く打ち込んでおいた。「でもね、微動だにしない人間なんて、いやしませんよ。それじゃあ、まるで像みたいじゃないですか(笑)。人間なんだから揺れるのが当然なんです。微動どころか激動だって珍しくありません。でね、振り子みたいにが揺れるでしょ? 一番大事なのは揺れた後に引き戻せるかどうかなんです。その“戻す力”が本当の自分の力になっていくんですよ」と。


 本当に人柄のよい方で、優しい顔の好人物だった。ご家族の状況なども確認して、1時間半ほど語り合った。「今度から、何かあったら私の方から相談させてもらいますね」と握手をして別れた。


 ま、全員と連絡がつくまで何年かかるがわからないが、父が面倒を見ていた人々に関しては、私が引き受けるつもりだ。父が「葬式を出す」と約束した以上、私が出さねばなるまい。その程度のことは飯前だ。