三度の高名と身延入り


 個人的に「三度の高(こうみょう)」を胡散臭くじて仕方がなかった。若い頃からだ。何とはなしに、三回注しても幕府がを傾けなかったから、大聖人がケツをまくって身延に引っ込んだ――という具合に考えていた。大体さ、「三度諌めて……」ってえのあ、臣下のあり方を説いたものだ。私の不勉強もあって、「職を辞す」という話は聞いたことがあるが、「山に引っ込む」というのは御書以外に知らない。


 もう一つ前々から気になってしようがないのは、日蓮大聖人の国家観である。教科書では、1590年に豊臣秀吉が天下統一を成し遂げたと習った。大聖人の時代は秀吉よりも300年以上前である。鎌倉時代における国家識とはどのようなものであったのか。はたまた、国家の行く末を案じたのは大聖人特有の視点だったのか。


 大体、三度目の国主諌暁は佐渡流罪赦免直後の文永11年(1274年)4平左衛門尉に対して行われている。で、身延山入りは5のこと。私が一番不審なのは、流罪を許されてから、どうして山奥に引っ込む必要があるのか、ということに尽きる。


 だから、何となく我々が抱いている印象というのは、多分間違っている。鎌倉を離れて、晩年に至るまで身延で人材育成をされたことは事実だ。だが、それだけではあるまい。


 ここからは私見である。組織でペラペラと話すんじゃないよ。大聖人はきっと、三度の高で政治革命を断されたのだとう。時の権力者がダメだったのか、政治状況がダメだったのかはわからない。いずれにせよ、政治主導による立正安国の道は閉ざされた。そこで大聖人は、身延で戦略を練られたのだと私は考える。


 振り返れば、佐渡流罪以前までは社会悪と真っ向から対決することでセンセーショナルな言論闘争を展開したと見ることも可能だ。「間違った社会」を徹底的に否定することで動執生疑を起こそうとされたのかもしれない。これは、人権や表現の自由といった概すらない封建時代の権力者からすれば、テロ行為も同然だ。


 つまり大聖人は、身延山に入られてからは「民衆による革命」を目指したのだとう。政治闘争から闘争へとパラダイムシフトをされたのだろう。


 戦略とは作戦であり政治である。これに対して信は人間である。この兼ね合いがしい。中道とはセンターラインではあるまい。大乗的見地に立った正道のことだ。戦略は組織を志向し、組織は兵士と官僚を求める。「人間らしい組織」を維持できるかどうかで、学会の発展は決まる。

 外典に曰く未萠をしるを聖人という内典に云く三世を知るを聖人という余に三度のかうみようあり一には去し文応元年[太歳庚申]七十六日に立正安国論最明寺殿に奏したてまつりし時宿谷の入道に向つて云く禅宗宗とを失い給うべしと申させ給へ此の事を御用いなきならば此の一門より事をこりて他国にせめられさせ給うべし、二には去し文永八年九十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆とてどしうちして他国侵逼とて此の国の人人他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺寿福寺極楽寺長楽寺等の一切の者禅僧等が寺をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ、第三には去年[文永十一年]四八日左衛門尉に語つて云く、王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりともをば随えられたてまつるべからずの無間獄禅の天の所為なる事は疑いなし、殊に真言宗が此の国土の大なるわざはひにては候なり大蒙古を調伏せん事真言師には仰せ付けらるべからず若し大事を真言師調伏するならばいよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば頼綱問うて云くいつごろよせ候べき、予言く経文にはいつとはみへ候はねども天の御気色いかりすくなからずきうに見へて候よも今生はすごし候はじと語りたりき(287頁)

 夏の桀王を諌めし竜蓬は頭をきられぬされども桀王は悪王竜蓬は忠臣とぞ云う主君を三度諌むるに用ゐずば山林に交れとこそ教へたれ何ぞ其の非を見ながら黙せんと云うや、古の賢人世を遁れて山林に交りし先蹤を集めて聊か汝が愚に聞かしめん、殷の代の太公望は・渓と云う谷に隠る、周の代の伯夷叔斉は首陽山と云う山に篭る、秦の綺里季は商洛山に入り漢の厳光は孤亭に居し、晋の介子綏は緜上山に隠れぬ、此等をば不忠と云うべきか愚かなり汝忠を存ぜば諌むべし孝をはば言うべきなり(493頁)

 本よりごせし事なれば三度国をいさめんにもちゐずば国をさるべしと、されば同五十二日にかまくらをいでて此の山に入る、同十に大蒙古国よせて壱岐対馬の二箇国を打ち取らるるのみならず、太宰府もやぶられて少弐入道大友等ききにげににげ其の外の兵者ども其の事ともなく大体打たれぬ、又今度よせくるならばいかにも此の国よはよはと見ゆるなり、仁王経には「聖人去る時は七必ず起る」等云云、最勝王経に云く「悪人を愛敬し善人を治するに由るが故に乃至他方の怨賊来りて国人喪乱に遇わん」等云云(923頁)

 本よりごせし事なれば日本国のほろびんを助けんがために三度いさめんに御用いなくば山林にまじわるべきよし存ぜしゆへに同五十二日に鎌倉をいでぬ(928頁)