イズムの罪〜「勝負主義」と「現証主義」について


 とは言葉である。いやちょっと違うな。訂正しよう。とは「言葉の構成」から成る。つまり、構成が変わるとは変質したことになる。「くれた」という言葉遣いを私が許さないのもこのためだ。以前から温めてきたテーマなんだが、中々発展しないので書いてしまうことにしよう。その前に以下のテキストに目を通してもらいたい――

「イズム」とは「主義」のことである。近年になって「原理主義」という言葉が出回るようになったが、原理の中に無理矢理人間を押し込む強制が嫌悪されていることが窺える。ま、「プロクルステスのベッド」みたいなものだろう。あるいは、大リーグボール養成ギブス

 学会組織にはいつからか――実は昭和54年以降に顕著になったのだが――「勝負主義」と「現証主義」(または「実証主義」)とも言うべき価値観が横行している。私自身、多分誰よりもこれを広めた一人である(笑)。


 では、御書をひもといてみよう――

 夫れ法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞を本とせり、故にをば世雄(せおう)と号し王をば自在となづけたり(「四条金吾殿御返事」1165頁)


 大半の人が無視しているが、「本」に対して「さき」と対比する関係になっている。つまり、「さき」とは根本に対して枝葉という味なのだよ。ってこたあ、「勝負が根本ではない」という味になる。で、同じ御書にこうも書かれている――

 法と申すは道理なり(「四条金吾殿御返事」1169頁)


 じゃあ、どうして組織は「道理主義」にならないんだ? おかしいよね。「道理主義」なら個人的に一票投ずるよ。


 実はこの「勝負主義」が、「数こそ勝利」「社会的成功こそ勝利」という信仰観を生んでしまったと私は考えている。折伏、新聞啓蒙、選挙という基本的な活動はいずれも数字に追いまくられている。内容は一切問われない。いかなる形であれ(笑)、数さえ出せばオッケーだ。ここにおいて人材とは、「数字を叩き出す営マン」を味するようになってしまった。そんなわけだから、時々恐るべきインチキに手を染める組織が出てくる。選挙の投票確認は、なぜか締め切り間際に100%となる(笑)。


 聖教新聞を見よ。学会における社会的成功とは、創価の学び舎で育ち――つまり学歴としての学園、創大――一流企の管理職となるか、学究の徒となるか、中規模以上の経営者になることである。本当はそうじゃないんだけど、聖教新聞を見る限りではそうなっている。


 体験談で致命的なのは、もはや完全に「病気が治る=功徳」という図式が成り立っている点だ。このため病気が治らなかった場合、大っぴらに「敗者」と認定される。これまた、「医学レベルでの勝負主義」となっている。大聖人は、「本有の病と捉えれば、いかなる病気であろうとも、それによって不幸となることはない」と教えていなかったか?


 更に学会組織においては、故人の死相までもが厳しく判定される――

 あのね、綺麗事を言ったところで何ひとつ変わらないんだよ。だから、どんどん書いちゃうよ(笑)。大聖人は病気で亡くなっているが、これをどう考えるんだ? 戸田先生も病気だよ。牧口先生は牢獄で殺されたも同然だ。ったく、誰も何も考えちゃいないよ。馬鹿ばっかりだ(幹部の話ね)。あいつら(これまた幹部ね)が持っているのは「短い物差し」だけだ。きっと15センチ以下だとうよ。


 続いて「現証主義」――

 日蓮法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず(「三三蔵祈雨事」1468頁)


 これについて那由他楽人君が最近書いていたものが以下――

 私がもっと簡単に言おう。現証主義がまかり通れば、「利根と通力」(16頁)が正当化できるのだ。もっと明快に言おう。開目抄で御指南されている――

 智者に我義やぶられずば用いじとなり(「開目抄」232頁)


 ここで、「我義(わがぎ)」と書かれている味はあまりにも重い。を吟味する場合に優先されるべきは、「義」であって「現証」ではないのだ。


 本当は「現証主義」でも構わない。しかしそれは「成功」といった経済レベルではなく、飽くまでも生命の次元や、生の質が問われるべきであり、「の財第一」(1173頁)主義でなければならない。


 草創期にあって「貧乏人と病人の集まり」と馬鹿にされながらも、無の勇者は堂々たる折伏を繰り広げた。「お前が満足な家に住めるようになってから出直して来い!」、「子供の病気を治してから偉そうなことを言え!」と罵(ののし)られ、蔑(さげす)まれ、塩をまかれ、唾を吐きかけられながらも、人々の幸福のために邁進(まいしん)した。このような偉大な庶民が、歯を食いしばって歩きに歩き、涙を流しながら走り抜き、傷だらけになりながらも飛翔したがゆえに現在の創価は築かれたのだ。


 はっきりと書いておこう。公明党が政権与党入りしてから、学会は草創の精神を見失った。その最大の理由は、運動にかまけて勉強しなくなったからである。学会における教学とは、「教学試験に合格するため」のものであって法研鑚とは無縁だ。そして試験の合否が再び、勝負主義・現証主義となっているのだ。


 法とは人間主義のことである。法を狭い枠に押し込め、人間主義を低い次元へ誘導する一切の主義を私は否定する。


 の行き詰まりが、信仰の行き詰まりとなっていることを銘記されよ。あとは自分で考えてくれ。