中日春秋

 池波正太郎さんの『鬼平犯科帳』にこんな話がある。放火犯や盗賊集団を取り締まる火付(ひつけ)盗賊改方(あらためかた)の密偵が、同心に手柄を立てさせたくて、無実の男を拷問して自白させ、放火犯に仕立て上げる▼処刑直前、長官の「鬼平」こと長谷川平蔵が男が無実であることを突き止め、真犯人を捕まえるというストーリーだが、意外だったのは、同心と密偵が江戸追放や島流しの処分を受けたと、池波さんが書いていることだ▼現代でいうなら自白を強いて罪をでっち上げた取調官が、懲戒免職では済まずに刑事を受けたといったところだろう。小説の世界ではあるが、江戸時代の方が、役人の不正に厳しかったのだろうか。冤罪(えんざい)を生み出した取調官が厳しい処分を受けたと聞いたことはない▼「特捜神話が崩れた」「検察の誇り失墜」「調書裁判の終焉(しゅうえん)」。郵便不正事件で厚生労働省村木厚子元局長に言い渡された無罪判決を受け、新聞各紙にこんな見出しが躍った▼特捜部の事件でここまでの全面敗北は珍しいが、幹部が描いた構図に合わせて供述調書を作成し、「事実」とする捜査手法は以前から問題視されてきた。そこに目をつぶり、「特捜神話」を育てたのはマスメディアではなかったのか▼取り調べの全面可視化を求める声は一層強まるだろう。検察は大きな危機を迎えているが、メディアもまた自省が求められている。


中日新聞 2010-09-12