未来の苦を償う


 兄弟のように仲良くしている先輩の娘が病気になった。血球貪食症候群という病だ。知らせてくれた際に「八王子方面の学会員からレバレッジ10倍の祈りを送ってもらいたい」と真剣な口調で言われた。すかさず「よしきた、合点承知」と応じた。


 1週間ほど経過してやっと高熱が下がった。「一時は覚悟した」と先輩は語った。同居している義父が葬儀の準備をしていた、とも。いまだ予断を許さない状況ではあるが、取り敢えず脳へのダメージは防ぐことができた。


 過酷な現実に遭遇し無力感を思い知らされた時、人は祈る。その祈りは届かない。なぜなら単なる欲望に過ぎないからだ。もう一歩静かに祈り抜くと自分のエゴが浮き上がり、更に祈りが深まった瞬間、本有の病(※真蹟にこの言葉はない)と達観できる。本有は因果の解体である。

 然りと雖も宿縁の催す所、又今生に慈悲の薫ずる所、存の外に貧道に値遇して改悔を発起する故に、未来の苦を償ひ、現在に軽瘡出現せるか。


【太田入道殿御返事、1011頁、真蹟


 日蓮はこの御書の前半で「此れは是れ業が謝せんと欲する故に病むなり」という涅槃経を示した上で、このように結論している。「軽瘡」とは軽いできもののことか。


 つまり、借金を返済している(過去の業)ではなく、先行投資(未来の苦)をしているというのだ。何と見事な発想の転換であろう。時間軸を引っくり返し、病気と健康を反転させて一念の変革を促している。


 高度に発達した情報化社会は取捨選択した情報に振り回される。特に病の場合それが顕著で、ネットや書籍で調べれば調べるほど「治らない」根拠が積み上げられてゆく。こうして脳内には「治らない」という情報回路が形成される。


 ここで見逃すことができないのは「病即消滅 不老不死」という経文を紹介してはいるが、日蓮自身の言葉で「治る」とも「治らない」とも書かれていない事実である。ここにこそ仏法の真髄がある。

 所詮、将来とは過去の裏返しに過ぎない。もっと簡単に言おう。将来は「全員が死ぬ」のだ。ゆえに病気が治ったらどんな人生を送ろうかと空想に耽(ふけ)るよりも、今をどう生きるかが大事の中の大事となる。病とは「大いなる問い」そのものであろう。


 この手紙を「書は言を尽くさず。言は心を尽くさず。事々見参の時を期せん。恐恐」と締め括っている。仏法は経文や教義の中に存在するわけではない。人間と人間が向かい合い、生命と生命が交流する中で仏法は脈動するのだ。これが縁起であり、マンダラに認(したた)められた世界だ。