「如説修行抄」は偽書なのか?

 私はミスター如説修行抄である。私以上に詳しい人を見たことがない。「御書に関するFAQ」で紹介した通りだ。ま、どこを質問されても大体答えることができる。


 今成氏の説を初めて知ったのは一年ほど前のこと。その瞬間「ああ、そうかもな」と思った。


 お断りしておくが、私は上記のリンク先も一瞥しただけで、きちんと読んでいない。もちろん今成氏が説く摂受本懐論には異議がある。っていうか、アプローチの仕方が拙いと思う。二者択一を強いる手法は、まるで誘拐犯の脅し文句みたいだ。「金を用意できなければ娘の命はないものと思え」。


 私が「偽書かもな」と思ったのは全く別の理由だ。実は数年前からモヤモヤと考えていた。仏が「拷問に耐えて殉教せよ」と門下に促すことがあるだろうか? 「縦(たと)ひ頚(くび)をば鋸(のこぎり)にて引き切り」という極端な例えが門下に通用したのだろうか?


 この御書は「人人御中へ」となっており、末尾にはわざわざ「此の書御身を離さず常に御覧有る可く候」と念を押している。


 迫害が必至であった一部の弟子に宛てたものであれば、それほど神経質になる必要はないかもしれない。


 だが私は、やはり日蓮が「死を促す」とは思えないのだ。真蹟に「死身弘法」という言葉は一箇所あるだけだ。


 どうせ中途半端な人生を送るなら、死と向き合えという姿勢はあってもおかしくない。人生の主導権を握ることは自由につながっているからだ。しかし「思想に殉じる」という概念は近代以降のものだろう。


 私が異臭を感じてならないのは、この御書が教団内の権力者にとって都合のいい内容になっているためだ。さしずめ「妙法の自爆テロ」「広布の過激派」といったところ。


 ファナティックな仏なんて、いるはずがないよ。