小林秀雄

 いずれにせよ、小林秀雄は、自分にとってそれほど近しい人でも、アクチュアルな人でもなかった。「過去の人」だと思っていた。
 それが、テープを聴いて変わった。「現代思想について」や、「信ずることと考えること」といった講演を聴くに至って、一気に、小林秀雄は、私にとって最も近しい人になった。「同志」と勝手に思いこむような存在になった。夜の道の暗闇(くらやみ)を歩きながら、車を運転しながら、繰り返し繰り返し聴いた。聴く度に、小林の言っていることが、心の奥底に染(し)みこんでいった。予想もしない出会いだった。思いもしない場所で生涯の恋人に出会ったかのようだった。
 なぜ、小林の講演が、私にとってそれほど衝撃だったのか?
 語り口が志ん生だった。甲高い声。早口。情熱。私は勝手に、イマイマしそうな口調で喋(しゃべ)る、気むずかしい老人を想像していた。テープに記録された講演の様子は、予想と全く異なるものだった。
 語りの文体が、ラフだった。小林が書き遺(のこ)した文章は、文句の付けようがないほど練り上げられた、隙(すき)のないものである。しかし、テープの中の小林は、むしろ即興的で、荒削りだった。聴いていると、まるで酔っぱらいと居酒屋で議論しているような気分になった。その無頼と言っても良い人柄に、私は強く惹(ひ)かれた。


【『脳と仮想』茂木健一郎(新潮社、2004年/新潮文庫、2007年)】


脳と仮想 (新潮文庫) 信ずることと考えること―講義・質疑応答 (新潮CD 講演 小林秀雄講演 第 2巻)